ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

時の種

2022-08-31 | 考え方

Historical Society of Michigan

この写真の男性は、ウィリアム・ビールが埋めたボトルの 1 つを持っている。 これは、おそらく 1920 年か 1930 年に撮影されたもの。

 

 

 

1879 年にウィリアム・ビールを見た人は、おそらく彼の頭はいかれているに違いないと思ったことだろう。 そう思った人々は、ビール植物学教授が20 本の瓶に少量の砂と共にさまざまな種を入れ、密閉して、それらを深い土中に埋めているのを見たのだった。 彼らが知らなかったのは、ビール教授が何世紀にもわたる種子の生存可能性実験を行っていたということであった。 20 年ごとに瓶を掘り起こして種を植え、どの種が発芽するかを確認していた。

去年2021年、ビール教授の属したミシガン州立大学で、そんな瓶の一本が掘り出された。 瓶の中の種子は大学研究者によって植えられ、142 年以上生き残ったいくつかの種子は発芽したのだった。

日本では、大賀一郎理学博士を中心としたグループが1951年に千葉県千葉市検見川の落合遺跡周辺の泥炭地で、発見された古代ハスの実(種)を2000年(年代鑑定により)の時を経て発芽させた話がある。 この両エピソードは、類似している。 

現代に発芽し、開花した大賀ハス

 

キリストは種を蒔くことについて多くのことを話し、しばしば種を蒔くことを「言葉」が広まることに例えた(マルコ による福音書第4章15節)。 サタンに奪われた種もあれば、土台がなく根付かない種もあるし、周囲の環境に妨げられて窒息してしまう種もあると教えられた(同15-19節)。 朗報(福音とも言う)を広めるとき、どの種が生き残るかは私たち次第ではない。 私たちのやることは単に福音の種を蒔くこと、つまりキリストについて人々に伝えることである。 神が私たちを通して働き、私たちが自分の信仰を他の人々と分かち合うとき、私たちが分かち合う言葉が根付くかどうか、いつ根付くかはわかってはいない。 

興味深いことは、この大賀博士は内村鑑三の影響を受け、無教会主義ではあったが、キリスト教に帰依していたことだ。ウィリアム・ビールはクェーカー教徒の両親の許生まれていて、これは私自身の「空想」に過ぎないが、両者は、おそらく上記の聖句が脳裏を掠めたことだろうと想像する。

つまり、朗報の種蒔きは、何年も経った後でも、かの教授が土中に埋めた瓶の中の種子のように、あるいは別の国の別の教授の古代ハスの種のように、「それを受け入れて実を結ぶ」人に受け入れられるのかもしれない(4:20)。 

ミシガン州立大学 / ミシガン大学アーカイブから。
若い頃の植物学者ウィリアム・ビール。

彼の始めた研究は、今日でも続けられている長期の検証が必要なものである。

 

 

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古(いにしえ)を懐かしむ

2022-08-28 | 自然の中で

Photo: Jim Mangum

アリゾナ州の化石の森国立公園内のブルー ・メサの見事な縞模様の紫色の砂岩層

 

 

私が小学校に上がった時、長姉は盛んに学生仲間で組んだ登山グループと共に親には内緒で谷川岳さえも克服したほどだった。 その姉がどこそこへの山へ週末行ってくる、などと聞くと、毎回必ず私は、「雲母(うんも)」か、「黄銅鉱」を拾ってきてね。」と頼んだものだった。 地学も鉱物学も知らなかったほんの子供が何故そのような鉱物の名前を知っていたのか今では甚だ見当がつかないのだが、その願いは叶えられた。

雲母(うんも)は、ケイ酸塩鉱物のグループ名。 きらら、きらとも呼ばれる。 特に電気関係の用途では、英語に由来するマイカの名前で呼ばれる。 英語のmicaはラテン語でmicare(輝くの意)を由来としている。』(ウィキピディアより) 雲母はその耐熱性や絶縁性があるが、用途は電気関係にとどまらず、ガラスの代用品、農業にも使用される。 ランプ笠でもよく使われ、現に、我が家にはアメリカのミッション家具やアーツアンドクラフト的なものによく使用された復刻調のマイカ笠の付いたランプが二つある。 薄いマイカ(雲母)を通して見る電球の明かりは、秋の夜長の読書に実によく似合う。 姉の山お土産の小さな雲母は、小さな紙の空き箱に入れて、大事にしていたが、成長するにつれて、いつのまにか私の世界から消えてしまった。 

fairoak.com

マイカのランプシェイドのいくつか

 

一方の黄銅鉱はチャルコパイライトと言われ、銅の硫化鉱物で、英語では、愚か者の黄金、とも呼ばれる。 黄銅といっても、これを精製して真鍮を作るわけではない。 どこぞの山から拾われてきた掌に収まる小さな黄銅鉱は、机上でいつも輝いていた。 留学渡米した折、弟に譲ったが、その弟は今は亡く、あの黄銅鉱はどこへ行ったのか、見当もつかない。

Karatz.com

黄銅鉱

 

何故鉱物に興味があったのか、朧にしか思い出せないが、今と変わらず幼少時にも古いものが好きだった、としか言えない。 鉱物は、一朝一夕でできあがりはせず、地球の始まりからいたのかもしれないし、恐竜だってそばを通りかかったかもしれない。 そうした記憶を内に秘めているかもしれない鉱物にそっと手を置いて目を瞑ると、太古の様子が目に浮かぶような気がしたのは確かだ。 今でもたとえば築100年以上経つ建物の壁や柱に触れて目を瞑ってみたい気持ちになる。

このところ鉄砲水や大洪水に襲われる南部や西部のニュースが続くが、深刻な旱魃は何一つ解消されてはいないのが現状である。 農作物や発電のことを考えると、やるせないが、そんな中、次のようなニュースもあった。それはテキサスの干上がった河川床に、ブラキオサウルスBrachiosaurusやディプロドーカス(Diplodocus)などの大型で首の長い恐竜の足跡が発見されたのだ。

この夏の過度の旱魃により、河川はほとんどの場所で完全に干上がり、テキサス州公園内でより多くの足跡が発見された。

 

ぬかるみの残る河川床では、考古学・古代生物学者たちが、なるたけ多くの恐竜の足跡のサンプルを集めるべく、石膏で型取りをしている。 恐竜の足跡は、アフリカ、中国、オーストラリア、そしてアメリカに多く見つかっているが、今回のテキサスと同様、アリゾナやユタでも見つかっている。そのニュースを明るいニュースと捉える私は、思い出した。アリゾナ州東北部にある化石の森のことを。

化石の森国立公園は、アリゾナ州北東部のナバホ郡とアパッチ郡にまたがってあり、文字通り化石化した太古の木々の大きな堆積物にちなんで名付けられた。 自然の侵食によって塗装されたような地形の多いその高地砂漠のごく一部に、崩れたような倒木の森が化石化されて保存されている国立公園である。

 

desertusa.com

 

2 億年以上前、かつての大きな針葉樹等は洪水によって根こそぎにされ、高地から洗い流されて砂に埋もれた。  そして木から染み出した水分が、腐敗した有機物質を細胞ごとに色とりどりのシリカ(二酸化ケイ素)に置き換え、硬い岩のようになった「元」樹木である。  土地は地質学的な隆起によって隆起し、浸食によって長い間埋もれていた石化した木材が露出して出来た。

夫の父親はニューメキシコ州境に近いアリゾナの町に生まれ、そこはブルー・メサに近く、つまり化石の森には、まだ国立公園指定(1962年)以前から、大きな街へ出たり、大学のある北部へ行く途中などでよく目にしていた所であった。彼がまだ少年期あるいは青年期には、その森沿いの道端では、そこらへんにたくさん転がっている石化木を輪切りにして売っている人々をよく見かけた。 その頃は二足三文の値段だったのだろう。 義父は、その輪切りを二つ懐が痛まない値段で買い、長い間自宅の書斎の床に置いていた。

夫と私が結婚後、しばしばアリゾナの義両親宅を訪問したが、最初の頃、その輪切りを見た私が、一体これは何なのかと尋ねると、義父は化石の森公園について語ってくれた。一輪切りはそれぞれ大変に重たいが、その切断面はとても美しく思えた。

やがて年を寄せた義父が亡くなるとしばらくして、義母が、私に、その化石木の輪切り一つを形見にとくれたのだった。いつか自分が化石の森へ行き、今ややたらに誰もが切り出せるわけではない化石木の輪切りを販売認可されているベンダーから買おうと思っていたので、私はとても嬉しかった。

この化石木の輪切りは、隕石や水晶などのような高価なものではなく、それでも私にとっては、黄銅鉱や雲母と同じほどの「宝物」なのである。 直径30+センチ、厚さ7センチほどの輪切りは、非常に重く、譲り受けてからいつも暖炉の前に鎮座している。 時々切断面を磨くというより、乾拭きしている。 そして例のごとく、この太古の木に手のひらを置いて、その冷たさからこの輪切りの経験してきた時間を思う。そして思えば、家族や私の所持しているもので、一番年をとっていて、2 ~3億歳なのだ。 大事にしたい。

 

我が家の長老:化石木の輪切り。

 

 

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慈愛という財産

2022-08-26 | 人間性

ruralbusiness.com

 

 

 

先週、友人のジョセフが語ってくれたことは、人生の短かな、でも深いレッスンとなった。

最近友人は2、3の品を買うために地元の食料品店に立ち寄った。 その小さな店はほとんど空っぽで、レジ係は 1 人しかいなかったが、友人がそこに並んだ時には、前にカートにいっぱいの食料品を降ろしている男性がいた。 友人は急いでいるわけではなかったので、レジ係の女性がレジを打っている間、リラックスして順番を待っていた。 前の男性は多くの食料品をいくつかの袋に入れて、それらをショッピング カートに戻していた。 精算をすませて、店を出ようとした時に、彼は、そのカートを 400 m 離れたアパートまで押して、荷を下してから、カートを元に戻してもよいかとレジ係に尋ねた。レジ係の女性はまだ新米で、何と答えて良いかわからなかったようで、困惑していた。 その時、友人は咄嗟に、「私が喜んで彼を家まで車で送ってあげましょう」と言った。

店の外に出て、友人は男性の食料品を自分の車のトランクに積み込んだ。 彼の家までの短いドライブの間世間話を交わすと、彼は最近こちらに引っ越してきたばかりだと言った。 そして、誰もが昨今ひしひしと感じるのと同じように、彼も高い生活費の圧迫を感じている、と話した。 友人はおおいに同感し、大きくうなずいた。 そして彼のアパートに着き、停車し、開けたトランクから食料品の袋のいくつかを出すのを手伝った。 それから友人は帰宅の途についた。 帰路運転しながら、「The cost of living (生活費)は上がり続けているが、少なくともthe cost of loving(愛すること)の費用は変わらない」と友人は独りごちた。

その話しをしてくれた友人は、さらに続けた。「それが愛することの代償の面白いところです。費用は一切かからない。 家族、隣人、友人、さらには見知らぬ人を助けることに愛を注いでいると、遅かれ早かれ自分の愛が底を尽いてしまうだろうと思う人もあるかもしれない。遅かれ早かれ、財布のお金のように、人の心は空っぽになってしまうと思っているかもしれない。 ところが、ありがたいことに、愛はそのようには機能しません。神はその知恵によって私たちを神の愛で満たしてくださるから、私たちが愛を分かち合うとき、それは減りはせず、代わりに、私たちは分かち合うことへの愛をさらに持っていることに気づくものです。」

「愛とはなんと素晴らしいことでしょう。費用はかかりません。そして、私たちが愛を手放すたびに、さらに多くの利益がもたらし返されます。 実のところ、それこそが人生を生きる価値のあるものにしています。 それでは、どうぞあなたの日々を愛で満たしてください。 あなたの心を愛で満たしてください。そして、地球上で最も貴重なものは無料であることを常に覚えておいてください。」

 

[主くかられた。]わたしはりなきをもってあなたをしている。それゆえ、わたしはえずあなたに真実をつくしてきた。

ジェレマイア(エレミヤ)書第31章3節

 

 

 

 

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裏の畑

2022-08-24 | 考え方

istockphoto.com

 

 

 

 

昔話、たとえ話、寓話は非常に少ない言葉で多くのことを伝える。 その伝えることは、聞き手や読み手の心と思いに届き、真実の光を放つものだ。

そんな話の 1 つは、年老いた農夫の話である。 彼は自分の農場、健康、家族の安全について常に心配していて、そのためイライラし、恐れ、怒り、動揺したりした。 そのせいで、しばしば彼は家族にそうした不安から来る苛立ちをぶつけた。

ある日、裏の畑を耕していた彼の鋤が、なにやら固い物に当たり、掘り出してみると、箱があるようで、彼は掘り起こしてみた。 するとその箱にはぎっしり金貨が詰まっていた。 この幸運に驚き、ショックを受けた農夫は、この新しい富で何をするか、何を買うかを考えた。 だが結局、彼は宝物を再び埋めて保存することにした。 それは、苦難の時の彼の安全保障となると考えた。

何年にもわたって、彼は金貨の入った箱を掘り起こすことも、コインの一つも使うことさえ、なかった。 しかしながら、必要な時に助けとなる裏の畑に埋められている金貨の箱を知っていることが、彼に精神的な変化をもたらした。 農夫にはもはや心配も恐れもなかった。 代わりに、彼は平和で幸せに余生を過ごすことができた。 彼は息子たちに優しく、妻には愛情を持ち続けた。彼は慈善団体に寄付し、隣人を助けた。 農夫の生涯はまるで愛の贈り物のようになった。 コミュニティ全体が彼の変化に驚いていた。

最後に死の床で、彼は息子たちを集めて、もう何年も自分自身で守ってきた秘密を彼らに話した。 老農夫が安らかに亡くなった後、息子たちは金貨の箱を掘り起こすために裏の畑に出かけた。しかし、彼らが埋まった箱を見つけたとき、それは空だった。 ずっと前にどこかの誰かがそれを発見し、金貨を盗んでいた。

この人生で私たち全員が見なければならないことは、私たちの真の安心や安全は裏庭に埋もれているのではなく、私たちの心と魂の奥深くに埋もれているということである。 金貨や宝物やお金は一時的なものだ。 神は永遠であり、誰もそれを盗めない。 神を知ることは、大金をはたいて真の価値が不確かな壺を買って得るものでは決してない。 彼は私たち全員をとても愛しており、「ここ」で私たちをサポートし、私たちの人生全体を共に歩むため「ここ」に存在するからである。

何故心を乱し、人生の大部分を心配に専念するのだろうか? 代わりに、あなたの愛の宝物を掘り起こし、それをみんなと分かち合うほうがどれだけ楽なことだろうか。 自身が心豊かになるだけでなく、家族や周りの人々をも幸せに人生を過ごせるようになるのではないだろうか。 そしてあなたが残す本当の遺産は永遠に続いていくのである。

あなたがたのうち、知恵不足しているがあれば、そのは、とがめもせずにしみなくすべてのえるに、願いめるがよい。そうすれば、えられるであろう」

ーヤコブの手紙第1章5節

 

appenmedia.com

 

 

 

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覚えていてほしい

2022-08-19 | わたしの思い

 

 

 

 

 

「一緒にいない明日があるとしたら…
常に覚えておかなければならないことがあります。
あなたは自分が信じているよりも勇敢で,
見た目よりも強く、
そしてあなたが思っているより賢いということを。
でも、一番大切なことは、
離れていても…
私はいつもあなたと一緒にいます。」

ークリストファー・ロビンからプーへ

 

 

 

トム・ソーヤーの忠実なお気に入りの相棒ハックルベリー・フィンと同じようなハックルベリー友達

 

   

   

 

  

ハックルベリーいとこ

 

Screenshot 2022-08-17 at 6.03.22 PM.png

           

 

たくさんの愛を込めて、


ハックルベリーおばあちゃんより

 

 

 

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