ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

アレッポの系図

2017-07-31 | アメリカ事情

シリア内戦が始まった頃、一人のアルメニア人女性の系図を手伝った。彼女のアルメニア名は非常に長く、発音も難しいので、フローラと呼んで、と言った。フローラは、シリアのアレッポ出身で、大部分の家族親戚はその時点で、まだアレッポ在住だった。ニュースは毎日戦況を伝えていたので、私は、まず彼女の家族の安否を尋ねた。フローラは、「クリスチャンはきちんと仕事をし、税を納め、シリアの財政を支えているので、シリア政府は、クリスチャン市民が、比較的安全にできるよう便宜を図っています。」と答えた。



しかし、それから、そう時を経ず、シリア政府軍と自由シリア軍との対立がさらに激化、アレッポでの市街戦にまで拡大、多くの人々が亡くなったり怪我をしたりしたのは、周知のことである。市内の歴史的価値のある建造物や住宅もほとんど破壊されてしまった。その頃までには、多くの市民が国外へ逃れたと聞き、フローラの家族もその中にいて欲しいと願った。フローラの系図はアルメニア人だが、シリアでの歴史が長い。石油売買の仕事についていたと言う祖父はかなりの財をなし、アレッポでの裕福な暮らしぶりが、見せてくれた写真でわかった。



アルメニアは世界で初のキリスト教国に301年になり、主な宗教はギリシャ正教、ローマンカソリックがあるが、アルメニア教会が多大な信者を擁する。そして回教徒もいる。1915~1916年に起きたオスマン帝国(現在のトルコ共和国)によるアルメニア人虐殺は、Genocideとさえ言われている。Genocideジェノサイドは、ひとつの人種、民族、宗教、国家を滅ぼすことであり、言うまでもなく、こうした集団殺害は国際法上の犯罪である。アルメニアアメリカ人は、4月24日のジェノサイド追悼記念日には、毎年トルコ共和国を非難する国際キャンペインを欠かさない。



アルメニア系移民は私の住む州に多く、そういえば、リアルティショウで有名になったカダーシアン家もアルメニア姓である。父親だったロバート・カダーシアン氏はあのO. J. Simpsonの弁護団の一人だったが、しばらく前に食道癌で亡くなっている。そして私の働く大学のキャンパスには少し前にアルメニア・ジェノサイド追悼記念碑が建立された。



フローラは、アルメニア教会から私や私の家族が所属するキリスト教会へ改宗し、アメリカへ渡った。タイプもコンピューターも一切したことがない、と腕を組んで言う彼女だったので、彼女の系図は、私が口述筆記者となって進めたのだった。名前の一つ一つには、政府発行の出生、婚姻、死亡などの記録・証明をつけるが、彼女の場合おそらく紙として残っている記録は市街戦や空爆撃で焼けてしまったことだろう。あの時彼女が語った名前は、家族にとって、大切な記録になったと思う。



日本では、シリア・アレッポと言ったら、有名なアレッポのオリーブ石鹸を思い浮かべる方もいらっしゃることと思う。無骨な四角い、緑の石鹸。クレオパトラも愛用したという古い古い歴史のあるアレッポの石鹸は現代でも質のよい石鹸として有名であるが、その会社・工場は今トルコ周辺で事業再開をしていると聞く。どうかそうでありますように。




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小さな人への大きな愛

2017-07-30 | アメリカ事情

医学生の四年目には、ローテイションと言って様々な科の専門医や病院へ赴き一週間、二週間と科ごとに、それぞれ費やす。赴く先は、同じ州に限らず、東部、中西部、南部といろいろである。私の住むエリアには名だたる子供病院があり、たまたま長男は、そこに働く小児外科医につくことになったが、その医師から学んだことは、専門的知識や技術だけではなかった。

その小児外科医は、妻との間に子供がいるが、ダウン症で生まれている。しかし、その後夫婦は、ダウン症児を複数養子にしたのである。何故なら、そうした子供達は、多くの医療が必要であるから、自分が少しでも役立つかもしれない、と、思ったからである。

気さくな彼は私の息子に、その子供たちから受ける喜びは大きく、本当に祝福以外の何物でもないと、笑顔で語った。病気の子供を治したいという情熱や、溢れんばかりの小さき者にたいする愛情が、息子にも感じられ、それが彼の外科的技術に反映されている、と息子は感じ、彼のような医師に是非なろうと、強く思った。

夫の同僚とその妻は、中国から、手足に障害のある兄弟を養子にした。アメリカだから出来る数々の手術で、歩けなかった少年たちは、歩けるようになった。同僚夫妻は、市井の人々である。夫はかねてから、この同僚の謙遜さと寛容さには、目を見張る思いであった。

アメリカは、いろいろなことで、他国から疎んじられ、軽蔑さえされたり、只々軽い、と思われがちだが、世界で一番寛容で、人を助けたいと願う人々がたくさんいるのは、事実である。和風総本家では、最後にいつも、日本って、いいなあ、と終えるけれど、私は、こう言おう。アメリカっていいなぁ。

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DNA

2017-07-29 | アメリカ事情

昨日DNAテストを使った系図調査について少し触れたが、男性は父性先祖と母性先祖を調べるテストを受けられるが、女性は母性先祖つまりマイトコンドリアDNAテストしか受けられない。

私自身もマイトコンドリア(ミトコンドリア)DNAテストを受けた。結果は想像した通り、ハプログループDで、母方は、堂々たる(?)日本人。このハプログループは、中国や朝鮮半島にはほとんど存在せず、日本の他に南西諸島とチベットで多く見られると言われる。日本人の長寿の秘訣はこのハプログルプDが起因とも言われている。

一方弟は父性先祖を調べるのにY-染色体DNAテストを受けた。結果は、ハプログループI2。この結果には、おおいに驚ろかされた。何故ならこのハプログループはアフリカから北極圏の北欧に渡り、そこから北方バルカン半島、現在のボズニア, ハーツゴヴィナあたりに定着したというのだ。クロマニョン人もこのハプログループである。父は北海道で生まれたが、先祖はみな青森であり、容貌もほとんど日本人である。不思議に思い、日本のDNA系図に明るい科学者のS博士にお尋ねすると、まず驚かれたが、これから日本人がもっとDNA系図テストを受けると、こうした思ってもいなかったハプログループが出てくると思うとおっしゃった。もう七年前の話であるが、現在日本のハプログループリストを見てもこのタイプは出ていない。北欧やバルカン半島に多く見られるのである。ちなみに弟と私は同じ両親の子供である。


ハプログループDは、Bridge Travelers(橋を渡った旅人)と呼ばれ、ハプログループI2は、The Stonemasons(石工)と呼ばれている。何故ならハプログループI2の古代人は先の尖った道具を作り、それでバイソン、馬、トナカイ、マンモスなどの狩猟をしたからである。

現在DNA系図は、古代祖先を辿るものだけではなく、より明確な人種を設定するものなどもある。さて、あなたの古代先祖はどちらからでしょうか?








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サイレントパレード100周年

2017-07-28 | アメリカ事情

夫の両親は教師で、父親は長い間校長を務めた。ある夏、新しいスクールバスを購入することになった。発注先は東部で、両親は小さかった末息子の夫を連れてヴァケイションがてら、陸路をとった。途中ナイアガラの滝に寄ったり、ワシントンD.C.でスミソニアンを覗いたりした。帰路は父親がピックアップしたバスを自ら運転、母親が自分たちの車でバスの後を走るようにして帰路についた。

途中南部の給油所に停まったのだが、お手洗いを使おうとした夫は、性別のドアの他に三つ目のドアに有色人種用と書かれていたのを覚えている。西部アリゾナでも有色人種への偏見はあったが、南部ほど顕著ではなかったらしい。学校に少数ではあったが、黒人もいたし、ヒスパニック、アメリカ原住民もいた。白人の夫は普通にお手洗いは性別に別れているものと思っていた。教育者でキリスト教徒の両親に育てられたから、差別や隔離とは無縁だったのかもしれない。


夫の母方の叔父は白人だが、歴史の大学教授で、専門はアメリカ黒人史である。彼は非暴力抵抗運動をキング牧師と共にアラバマでしたこともある。今日7月28日は、ニューヨークでサイレントパレードがアメリカで二番目の黒人の抗議行動として行われて丁度百年にあたる。1964年7月2日に、公民権法が制定され、それこそ上記のような人種分離サインは見かけなくなったが、黒人あるいは有色人種への偏見と差別はいまだに根強い。





アフリカンアメリカンの系図調査依頼が二件あって、二者とも先祖の所有者(なんて嫌な言い方だろう)まで遡った。それ以前は、DNA検査によってアフリカのどの地域で、どの部族だったか、などが判明できるが、個人名まではわからない。
一件はアラバマで、驚くことに彼女の家族は先祖が奴隷だった1700年代から解放された1865年以降現在も、ずっと同じ場所に住んでいる。

もう一件はルイジアナで、依頼者の緑の瞳や容貌から、白人の先祖がいると読めたが、実際にフランス系白人の先祖を見つけた。この白人は奴隷所有者の息子だったにも関わらず、ムラトと呼ばれる片親が白人、片親が黒人の子供の女性と正式に結婚してその証明書を見つけた。アメリカ黒人の間では、100%アフリカのDNA、あるいは、アメリカ原住民との混血のDNAと思われることが多いが、実際にDNAテストをすると、かなりヨーロッパのDNAが入っている人が少なくない。


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家族の歴史のひとこま

2017-07-27 | アメリカ事情

末娘がある日ボーイフレンドから、空から町並みを見ようと誘われて、空港へ連れていかれた。小型機のパイロットに挨拶、乗り込んだ。眼下に広がる景色、やがて自宅の近くの空き地へと飛行機が差し掛かると、ボーイフレンドは、「見てご覧、地面になにか書いてある」と娘に言う。すると、そこには白い字で、Sarah E Marry Me? 〔サラE. ボクと結婚してくれる?〕







これは彼の家族が手伝って朝から地主に許可をとり、地面を平にし、そこへ小麦粉で大きく作文したのだった。ボーイフレンドは飛行機の中で娘の手をとり、プロボーズし、娘はイエスと答え、この指輪が娘の左薬指にはめられた。






この日の早朝、彼は話があるので、朝食につきあってください、と連絡してきて、レストランで落ち合い、娘に結婚を申し込みたいが、おとうさんはお許しになりますか?と尋ねた。夫は、娘がどう思っているかによる、と言い、彼は、相思相愛です、と答えた。それなら、反対する気持ちはないし、きっと君は娘の良き伴侶になると思う、と夫は"許可”したのだった。

半年後の結婚式で、彼は涙する娘の母親をハグしながら、「これからは、ボクが彼女を守ります。」と耳元で囁いた。

二人は六年経った今も仲むつまじく、それぞれの目標にまい進している。これも家族の歴史。

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