ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

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2024-05-17 | 私の好きなこと


今週の乳癌専門癌科医検診で、マモグラムとソノグラム、血液検査、触診のクリーンな結果から鑑みて、晴てキャンサーフリーと判断された。結果が逆であっても、それも人生と思っているし、夫が迎えにくる、という希望さえ抱いただろう私だが、「晴て」の言葉どおり、今悪い細胞がない、とは、ひと時でも「くびき」*の軽さを感じられることだ。
*28 Come unto me, all ye that labour and are heavy laden, and I will give you rest.
29 Take my yoke upon you, and learn of me; for I am meek and lowly in heart: and ye shall find rest unto your souls.
30 For my yoke is easy, and my burden is light.

*28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
ーマタイ伝11:28-30

それで、浮かれて今日は私の最近気に入っている物について、考えてみることにした。いいえ、大したことのないことばかりだが、この一年、不思議に励まされ、心を和まされ、微笑みさえ浮かべさせてくれた。「晴れ」の日に、ご紹介。


これは、長女が10歳の時、小石にペイントして父親にプレゼントしたもので、この二つを夫は、大事にして書斎のデスクにきちんと置いていた。いわば形見のように、私は受け継いだ。そうだ、この二つは夫の墓碑銘の上に置いておこう。

 

先月スゥエーデンの六歳の孫娘のポケモン絵画がコンテストで優勝し、雑誌に掲載された喜びの写真とその絵。この子の表情が好きで、またこの可愛らしい絵も見ていると、元気が出てくる。



この孫#10とその兄孫#7、その両親との生活も半年目に入り、つつがなく忙しい中にも楽しい日々である。孫が訪問することも楽しいが、実際に毎日朝夕生活を共にしていくのは、疲れよりも明日への活力を生み出していく。こんな小さな子でもそんな力がある。



ほぼ毎週末訪問してくれる孫#3。矯正用メガネを新調して、もう立派な小学生。孫娘は3人しかいないのに、あと二人は東海岸と大西洋を超えたスゥエーデンで、一年一回ほどしか会えず、この子は孫娘の醍醐味を一手に引き受けてくれている。普段近くに住む4人従兄弟の中で紅一点だが、年下には優しく、平和的で面倒見のよい彼女には、安寧を感じることが多い。


最近になってこうして餃子を焼いてくるりとお皿にひっくり返してのせることができるようになった。できなかったことができるようになるのは、何歳になっても嬉しい。呆れるほど遅い習得で写真を載せるほどの腕前ではないのは百も承知だが。。。子供たちや孫たちが目を見張るほど感嘆するのが、素直に愉快。


ある日某所のドライブスルーで、前にいた車がテスラの2024Cybertruk AWD Crew Cab(2024年型の電気サイバートトラック、全輪駆動でキャブ付き)である。トラックと名にあるように、後部の屋根を外せば、かなりの荷台になり、2500パウンズの積載量、11000パウンズの牽引力もある。どの惑星でも使用可能と言う謳い文句のトラックとして、荒地や砂地、岩場もこなせる。車体は、ペイントなし、故にチップなしで、超硬質ステンレス鋼の外骨格は、へこみ、損傷、長期的な腐食を軽減すると言う。そのガラス窓も、強く、アコースティック・グラスと言われる強いガラスで、閉めれば車外の騒音を遮断する。と、まるでセールスパーソンの口調だが、実際に目にすると、割りと大きめで、まずそのデザインのシャープさに感嘆した。触ると指が切れそうなくらいのシャープな車体である。私が20代だったら、きっと欲しいと思うが、最大馬力クラスになると、9万6千ドル以上で、20代でも、何十代でも、これは夢の世界の話である。(参照:https://www.tesla.com/cybertruck)
目の保養。


この車は先週街中で私の右隣の車線で見かけた。2024年型のマゼラティ(マセラティ)社のGranTurismoグラントゥーリズモと言うイタリア車のEV(電気自動車)。ラグジョリー車だから、もちろん相当なお値段で遠い世界の遠いお金持ちのため。下々の私などの、ほんの一瞬の目の保養。欲しいとは思わないが、プラスティックの玩具の車であれば、楽しめることだろう。高級車を目にして、つい孫の玩具であれば、面白そう、と独言て、思わず笑みが浮かんだ。


この冊子は先月去年お世話になったホスピスから一年経って送られてきた。これで3冊目で、悔やみの付き合い方や、明るく希望を持って遺族が前向きになる素晴らしい言葉がたくさん書かれている。喪に服すのは誰でも同じなわけではなく、半年、一年経ったから、終わりでもないし、悲しみが薄くなるわけでもなく、残された者が旅立って先に行った愛する人と再会するまで、続く。それでも日々生きていくために参考になる言葉や考え方は、信仰のある者とて人生の道をゆくための杖のようなものである。ほんの数ペイジの冊子だが、クリスチャンの私には馴染みのある聖句も連ねられ、暗闇の灯りでもある。ホスピスという事業自体を、中には忌み嫌う方がいらっしゃると聞いたが、私には感謝しかない。時折お世話にいらしてくださった看護師の方々の明るい笑顔を思い出して、見えない夫に、本当にありがたかったことね、と話している。



そしてこれ。なんと一昨日8年前に夫がくれた母の日のカードをクレデンザの引き出しに見つけたのだ。それも封さえ切っていなくて、なんということ!! 良妻という言葉に程遠い私。すまなかったと後悔しきりでも、開封して読んだ言葉は、まるですぐそばに夫がいて、一緒にカードを覗き込んでいる気配さえ感じた。これが今の私にはかけがえのないお気に入りのもの。

カードにはこんな文章があり、その後に夫の「芸術的」な手書きが書いてある。
あなたの愛...
それは私の心を満たし、
それは私たちの家を満たし、
それはあなたのすべてのすることの一部です---
あなたと分かち合うこの人生の宝物の一部です

とてもたくさんの愛と幸せ
我が家へもたらしてくれてありがとう。
本当に感謝しています。


幸せな母の日を

(以下は夫の言葉)

2016 年 5 月 8 日
毎日、毎週、毎年、あなたが私のためにしてくれているすべてのことに対して、
あなたへの私の愛は年毎に強くなります。
最高のものはまだ来ていない---

愛、XXX(夫の名前)


家族は永遠。
コメント (4)
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アーマの切実なアドバイス

2024-05-11 | 私の好きなこと
Erma Bonbeck
writersdigest.com



備考:この記事は、2019年4月5日に初投稿したものだが、5年経った今再び投稿することにした。我が身に癌を得て、未だキャンサーフリーというスタンプが押されていないこともあり、彼女のこのエッセイは切実さを私に抱かせる。5年前の投稿文に、多少書き直しあり。


Erma Bombeckアーマ・ボンベックというアメリカのユーモア作家をご存知だろうか。彼女は1960年代半ばから1990年代後半にかけて、ごく一般的な郊外の家庭生活を描くことで定評があり、それは新聞コラムで大きな人気を博した。15冊の著書があり、ほとんど全書がベストセラーともなった。ボンベックは中西部郊外の主婦の日常生活を記録していたが、そこには、ユーモアがあり、4000を超える新聞のコラムニストとして活躍したものだ。アメリカだけに限らず、カナダの900の新聞にも掲載され、人気があった。

アーマ・ボンベックは1927年オハイオ州ベルブルックに生まれ、1996年4月22日持病の腎臓病が悪化し、移植手術を受けたが、カリフォルニア州サンフランシスコにてその69歳の生涯を閉じた。下記は、彼女が不治の癌と診断をされた直後にペンを執ったものである。


もし人生をもう一度生きるならば

アーマ・ボンベック、不治の癌を診断されて。


私はもっと少なく話し、もっと耳を傾けていただろう。カーペットにシミがついて汚れていても、ソファが色褪せていても、友人を夕食にもっと招待しただろう。

私は 見栄えのするリビングルームでポップコーンを食べていただろうし、誰かが暖炉で火を焚きたいと思ったならば、煤などの汚れについて、今までよりもはるかに少なく心配していただろう。

祖父がぼそぼそと話す幼い頃の話を私はもっと時間を割いてじっくり聞いていただろう。

逆毛を立てて、しっかりスプレーされた私の髪を、風で乱したくないと、夏の日に車窓を閉めて、と主張することはなかっただろう。

ピンクのバラのように彫られている蝋燭を、特別な機会に、と取っておいて保存していた場所で、結局溶ける前に、それを灯しただろう。

衣服に草の染みがつくことを心配せずに、私は我が子たちと芝生の上に座っていただろう。

私は、テレビを見てはもっと泣いたり笑ったりするよりも、人生を見てはもっと泣き、笑っただろう。

私がその日その場所にいなかったら地球がストップするだろうというふりをせずに、病気ならば床についただろう。

それが実用的で、一生汚れもせず持続する、という理由だけで私は物を買ったりすることはなかっただろう。

妊娠に9ヶ月を長いと感ずるよりも、私の中に芽生えている驚嘆と不思議が、神の奇跡をお手伝いする唯一のチャンスとして悟り、すべての瞬間を大切にしていただろう。

我が子たちが私にせっかちなほどにキスをしたとき、「夕食後の片付けをしてちょうだいね。」と私は決して言わなかっただろう。

もっと 「私はあなたを愛しているわ」を言い、 もっと 「ごめんなさい」を言っていただろう...けれどもう一度人生を持つチャンスがあったならば、私は毎分だってそれを掴み、その時間を生き、決してそれを離さない。


postbulletin.com

備考2:やっといただいたコメントへのお返事をしたためました。しばらく書かずにおりましたことをお詫びいたし、またコメントをとても感謝しております。



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とある母親

2024-05-07 | 人間の愛



インターネットのReddit*の質問フォーラム(人々が望む質問を投稿できる場所)で、あるユーザーが「物がわかる十分な年齢になってから、ついに暴露された家族の暗い秘密は何ですか?」と尋ねた。

下はその質問への回答の 1 つであった。

「母は私を産んで数か月後に亡くなりました。どうやって死んだのかと尋ねると、いつも答えは、眠っている間に亡くなった、で、その理由は誰も知らないと言うばかり。それでも、私はつい数年前に母が癌を患っていて、そこへ私を妊娠していたと知ったばかりでした。つまり 私を産んだことで彼女はひどく衰弱し、最終的には死に至ったと思います。私のせいで母は亡くなったのです。そのため、私は到底自分を許せるとは思えません、なぜなら、皆から聞いたところによると、母はとても心の広い、とても優しい女性だったからです。 」

偶然その回答を目にとめたある母親は、彼に返信することにした。

「私は母親なので、何か知っているなら、もしできればあなたのお母さんがあなたにこれを教えてくれるはずです。だから私が彼女の代わりに教えてあげます。

あなたのおかあさんはあなたの出生を決して後悔しませんでした。 一瞬とても、です。 あなたは彼女の良いところすべてでできています。 癌によって彼女の人生は終わったかもしれませんが、自分の子供を創造する機会を得られたことは彼女にとって最も誇らしい瞬間でした。 彼女は、あなたが彼女が生きられない場所で生きていけることを知って、ただただ安寧のうちに終わりを迎えました。 心優しいあなた、あなたにはご自分を許すことなど何もありません。 あなたが彼女をこの世から奪ったわけではありません。

あなたがいるからこそ、彼女はあなたの心の中に留まることができるのです。」


約8か月後、この青年は自分の状況についての最新情報を投稿し、本当に必要な時に助けてくれた母親に感謝の意を表した。


「何か月もセラピーを受けてきた結果、私はようやく母の死に対する罪悪感を感じなくなり、自分を責めることもなくなりました。そして、この回答を書いてくださった(あのおかあさんに)感謝したいと思います。あの時、私にはそれが本当に必要だったからです。 自分の言葉がインターネット上の見知らぬ人に与える力を決して過小評価しないでください。」

*Reddit (/ˈrɛdɪt/) は、アメリカのソーシャル ニュース集約、コンテンツ レーティング、フォーラム ソーシャル ネットワーク。 登録ユーザー (一般的に「Redditor」と呼ばれる) は、リンク、テキスト投稿、画像、ビデオなどのコンテンツをサイトに送信し、他のメンバーによって賛成または反対の投票が行われる。
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ある砂浜の話

2024-05-04 | 日記
神戸市須磨区にある須磨浜


かなり以前になるが、かのビーチボーイズが1979年にリリースしたアルバムの中にSUMAHAMAという歌があった。1995年頃、たまたま購入したCDに入っていたのだった。ビーチボーイズが好きだった夫は仕事で出張した折、運転中の退屈を凌ごうと、そのCDを持参し、車のプレイヤーにかけて初めて聴いた。夫は帰宅して、早速私に聴かせてくれた、「ちょっと悲しくて、寂しいんだけど。」と言いながら。

当初SUMAHAMAは、SUNAHAMAのミステイクかと思ったが、同時に須磨海岸のことだろうか、とも思った。何故ならその歌詞に日本語の箇所があり、「綺麗な白い浜」とあり、いつか目にしたカラー写真の須磨海岸の、その砂浜が白かったのを覚えていたからだ。

かつて系図関係で罹った調査熱が再び上がり、ちゃんと調べてみようと割と真面目な顔になって今件を調べたくなった。すると、SUMAかSUNAかの小さな論争は、アルバムのリリース当時から割とあって、アメリカでは、32年間日本に滞在した方(つまり日本通)が、あれはSUNA砂だ、というご意見、またある人は自分は神戸市須磨区の須磨海岸に行ったことがある、だから、あれはSUMA浜だとおっしゃっていた。このアルバムは日本でもリリースされていたから、日本でもそうした疑問はもちろんあったようである。

するとSNSが盛んなひと昔プラスも前にこの件に関する記事が日本にあった。 関西圏の朝日放送にバラエティーショウ「探偵ナイトスクープ」があり、司会者は西田敏行氏と山田五郎氏の御両人という番組で、この件に関して件のトピックがあったと言う。そして、この番組で、とうとう「謎」を解き明かしたのだった。

たまたま2012年に訪日し、ホテルオークラに滞在していたビーチボーイズに、この番組は、突撃取材をして、メンバーから真相を聞いた、と、ある方のブログ記事にあったのだ。

そして番組では、実際にリポーターが事前依頼なしの、文字通り、突撃取材が幸運にもでき、それもこの歌の作者、Mike E. Loveマイク・ラヴ氏ご本人に直接質問できたのだ。その結果、真相が明らかにされた。

真相は、SUMAHAMA須磨浜である。やっぱり!
曲は、そのアルバムのジャケット同様、アメリカ人的なオリエンタル調だが、綺麗なメロディと歌詞ではある。

ラヴ氏によれば、一時的に日本人女性とお付き合いをした時の歌、だということだ。その方は5歳まで須磨在住で(その後渡米なさったらしい)、この浜辺がお好きだったらしい。ラヴ氏は、彼女から須磨海岸の話を聞き、写真をご覧になり、そこからこの曲が発想されたようである。

東京生まれで、横浜育ちの私は、幼い頃から米軍人をよく見かけ、同時にそうした軍人と連れ立って街を行く日本女性もお見かけしたものだ。全てのそうしたカップルが結婚には至らず、終わりを告げた恋物語もあったことだろう。この曲の哀しみのある歌詞からは、必ずしもこの少女の父親が外国人だとは限らないが、母親が恋に落ち、少女が生まれる前に別れてしまったことは確かだ。

昨年のファミリーヒストリー番組、草刈正雄氏の回は、どなたももらい泣きになられたことだろう。草刈氏の母堂の潔い強さは、並大抵のことではなかったと想像できる。あのような話は、本当に多くあった。

私の母は、昔大磯の澤田美樹女史のエリザベス・サンダース・ホーム、あるいは混血児とその未婚の母親のために、弱小ながら援助やその他のできることをしてきた人だった。母はその関係で、親しくなった女性とその美しいお子さんを時折、5人子供のいる我が家へ連れてきたので、子供同士遊んだものだ。

そんなことから、悲哀なエピソードをいくつか話していたのを私は覚えている。今でもSUMAHAMAを聴くと、メランコリックになって、かつてそのような生い立ちのあったことを思い出したりする。

そうだ、そういえば、私の夫と私も生い立ちは太平洋を挟んだ彼方と此方ではないか。それでも、この歌のような哀しい背景は一切なく、むしろのほほんと普通に暮らしてきて、離婚の危機さえ持ったことはなかった。アリゾナ州とカリフォルニア州の我が家を訪問してくれた母は、当時専業主婦・母親をしていた私を見ては、つくづくと「あなたはとても幸せなのよ。」と呟いていた。でもそうなのは、私だけでなく、姉たちや、母の妹も、結婚生活は不幸ではなかったし、伴侶の逝去までむつまじく添い遂げている。

ラッキーな部類にはいるのかもしれない。私自身の石橋を叩いて渡るような性格も幸いだったのかもしれない。結婚に至るまで、プラトニックを貫いたのもプラスだったのかもしれない。




Sumahama

There's a lover's leap in old Japan
Where the lovers walk along the sand
Hand-in-hand at Sumahama
Sumahama
Born a lovely oriental daughter
Never ever having met her father
Asks some questions of her mother
Tell me, tell me mama
Will you ever go again to Sumahama
Perhaps you'll find love there
Somewhere between the Earth, the sky and water
There at Sumahama
Sumahama
In the autumn as the leaves are falling
One can almost hear the lovers calling
From the sea at Sumahama
Years have past and tears have long since dried
But no amount of time could hope to hide
A love so strong from Sumahama
Tell me, tell me mama
Will you go with me back to Sumahama
Perhaps you'll find him there
Somewhere between the Earth, the sky and water
There at Sumahama
須磨浜
そこは恋する人たちが
手に手を取って歩いた
綺麗な白い浜
いついつ、ママ、須磨浜に
いつ又行くの
過ぎた愛を探しに行く
海の彼方、須磨浜
須磨浜
There's a lover's leap in old Japan
Where the lovers walk along the sand
Hand-in-hand at Sumahama
須磨浜
秋に木の葉が散るように
寂しく悲しい恋の歌
須磨浜の海から

Source: LyricFind
Songwriters: Michael Edward Love Sumahama lyrics © BMG Rights Management, Wixen Music Publishing

須磨浜

須磨浜


昔の日本には恋人のハードルがある
恋人たちが須磨の砂浜で手を繋いで歩く場所には
須磨浜
素敵な東洋人の娘が生まれ
父親には一度も会ったことがない
母親にいくつかの質問をする
教えて、教えて、ママ
もう一度須磨浜に行きますか?
もしかしたらそこで亡くした愛を見つけるかもしれない
陸と空と水の間のどこかに
須磨浜に
須磨浜
木の葉が落ちる秋に
恋人たちが呼んでいるのが聞こえてきそう
須磨浜の海から
須磨浜
何年も経ち、涙はとうに乾いてしまった
でも、どれだけ時間が経っても隠すことはできません
須磨浜からの強い愛
教えて、教えて、ママ
一緒に須磨浜に帰りませんか
おそらくあなたはそこで彼を見つけるでしょう
陸と空と水の間のどこかに
須磨浜に
須磨浜
そこは恋する人たちが
手を繋いで歩いた
綺麗な白い浜
いついつ、ママ、須磨浜に
いつまたいくの
過ぎた愛をさがしにいく
海の彼方 須磨浜
須磨浜
昔の日本には恋人のハードルがある
恋人たちが須磨の砂浜で手を繋いで歩く場所には
須磨浜
秋に木の葉が散るように
寂しくて悲しい恋の歌
須磨浜の海から

コメント (3)
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