ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

つつましい嘆願

2020-03-19 | アメリカ事情

goodmorningamerica.com

 

 

 

おそらく中学生徒が級友をいじめ、教師を恐怖に陥れることで最も有名になる時代に、ある一人の少年が私たちの希望を取り戻してくれた。

ウィンストン・リー教師は、その生徒をクラスの最優秀生徒としての実績がある「ストレートA +(オールA+)の男の子」と説明した。最近のテストの終わりに、少年はリー氏にメモを残し、それはわずか3日でウェブ全体で35,000人を超える人々の心を揺さぶった。

 

彼のSNS投稿で、教師は次のように書いている。

 

「これを叫ばずにはいられません。正直に言うと、こんなことを目にしたことはありません。。。

 

私の生徒のひとり、オールA+を取る男の子は、困っている他の生徒に自分の得た5点のボーナス点を提供したいと申し出たのです。誰でもかまわず。そのとりわけ難しいテストで、とても苦労していたかもしれない仲間を思い、自分の稼いだ点を提供したいと言うのです。

 

この生徒は級友を友だちと考えていて、自分の損など気にしませんし、級友がかっこいいかどうかも気にしません。どのような状況で低得点になるほど誰かが苦労したかも関係ありません。この子はただ助けたく、親切にしたくて、そして愛情ある行動をすると決めて生きてきているのです。

 

このメモは私に大きな希望を与えました。私たちみな、この少年のようになろうではありませんか!!」

 

FaithIt参照

Winston Lee氏のフエイスブックから。

*もしできれば、僕のボーナス点をだれでも最低得点の生徒にあげてくれますか?

 

 

 

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セント・パトリックの日

2020-03-17 | 文化・習わし

Pintrestから。

アイルランドの国花シャムロック

 

 

 

ごく親しい人々で作っているブッククラブ(読書クラブ)に属している長女が、日曜の午餐の支度をしている私に、こんなことを言った。「今クラブで***という本を読んでいるんだけれど、アイルランドでは昔から、とても縁起を担ぎ、迷信を疑わず、未だLeprechaunレプリコーンを始めとする、様々な妖精を信じているのね。」

 

私は火にかけたお鍋のポテトが吹きこぼれないように、注意深く蓋を少し開け、中火にしながら、「バンシーとか、ヨーロッパによくあるChangelings(チェンジリングス=取り替え子)とかも?」と私は聞いた。

 

「そうなの。信じている妖精は、数多よ。迷信とか、縁起担ぎもたくさんあるし。そういえば、あのトレントが不慮の事故で亡くなった時、お母さんは、その不幸の電話を受ける寸前に一羽のカササギを見かけたので、『ああ、やっぱり!』と言ったわよね?そして南加の家のガラージでお祖母ちゃんからの古い鏡台の大きな鏡にヒビを入れちゃった時も、『まあ、どうしましょう、七年の不運が始まっちゃうわ!』と言ったわよね?そういうのは、みなアイルランドで言われていることなのよ。知ってた?おかあさんは日本からの人なのに、何故そう言ったの?」と尋ねる長女。

 

「あら?何故そんなこと、口走ったのかしらね?多分J.B.イェイツの影響かも。あ、待って。カササギの件については、野鳥の図鑑で知ったんじゃないかしら。」と私。つまり乱読からのどうでもいい知恵に過ぎない。

 

3月17日はセント・パトリックの日である。アイルランドよりも、むしろニューヨークやシカゴでのパレードに始まるイベントは、例年大変盛んで、シカゴでは市中に流れる河を緑に染めてしまうほどだ。この日は、セント・パトリックの日だからと、アルコール飲料は飛ぶように売れ、大小のパーティが多く開かれる。武漢ウイルスの蔓延する世界中を背景に今年はキャンセルが多く、とても例年のような騒ぎにはならない。各州の知事は州民に、飲みたければ、自宅でひっそり飲みなさい、と勧告しているし、肝心のバーやパブは閉店を余儀なくされている。

 

19世紀のポテト飢饉で、大勢のアイルランド人はアメリカへ移住し、今では本国よりもその人口は合衆国に多いと言われる。どちらかというと東海岸や中西部に移住した人々は昔からの故国のしきたりや祝い事や習慣やらをその文化と共に踏襲し続けているようだ。合衆国太平洋北西部もアイルランドの気候に似たような点もあり、アイルランド人は移り住んできた。

 

当初太平洋北西部は、安価な土地があり、幅広い経済的機会(林業、漁業、農業)があり、故国では移民となる人々には到底入り込めない出来上がったエリート層が、そこでは刻々と変化する社会的秩序と共に新しく作り出され、そこに名を連ねるアイルランド移民の数は決して少なくはなかった。アイルランド移民たちは、農業だけにとどまらず、銀行家、起業家、商人、出版社、市民指導者、慈善家、政治家、鉱山所有者などに成功を見出し、ワシントン州では一部のアイルランド人は非常に裕福な人々となった。まさにアメリカンドリームの実現であった。

 

マサチューセッツ州やニューヨーク州のアイルランド移民とその子孫についてはよく知られているが、カリフォルニア州、特にロサンジェルスには、星を瞳に輝かせてハリウッドを目指した者が多かった。ジョン・ウエイン、ジェイムス・キャグ二―、グレース・ケリー、などなど数多い。ロナルド・レーガン大統領もアイルランドにルーツがある。そして最初のアイリッシュ・アメリカンとして合衆国大統領になったのは、ジョン・F・ケネディである。映画も、L.A.コンフィデンシャルのように、アイリッシュ・アメリカンの主要人物が話を進めていく作品だ。

 

つまりアイルランド移民の末裔は、多くが政界に芸能に学問や医学あるいは科学などあらゆる面のアメリカ社会で要として存在している。もしあのポテト飢饉で大洋を渡る決断を先祖がしなければ、こうしたことは只の夢だったろうと思える。その決断が末裔の運命を定めたと言える。

 

そうした人々が故国から大事に持ってきた習慣、しきたり、料理、さらに縁起担ぎや迷信まで、アメリカ社会には広く浸透している。おそらく故国アイルランドとは、カトリック教会へ毎週日曜日礼拝しに行くか否かほどの差で、迷信などは残されているのだろう。その中のいくつかをご紹介しよう。

 

Leprechaunレプリコーン

グリム童話の「小人の靴屋」に登場する靴屋がレプリコーンと言う説もあるが、J. B. イェイツによれば、ケルト語で、片足靴屋を意味する。垣根に座って靴を修繕する姿が見られる悪霊の子供で堕落した妖精とも言われるが、緑色の服を着ているこの妖精は地中に埋もれている宝のありかを知っているとされ、その宝は虹の始まる所か終わる所にあると言う。だから決して私たちはその宝物(金)には行きつけないわけである。何百年前からの言い伝えではあるが、近代では1938年に、リムリック郡のジョン・キーリー少年がその郡の西でレプリコーンに出会ったと言う。

ラッキーチャームというアメリカのシリアルのマスコット、ラッキー。

 

 

Bansheeバンシー                                             

アイルランドだけではなく、同じケルト民族のスコットランドにおいても、伝わる女性の妖精で、人の死を叫び声で予告すると言われる。アイルランドやスコットランドの旧家には、その家固有のバンシーがいて、故郷を遠く離れて暮らしている者にも、故郷にいる一族の死を伝えるという。1900年3月、コーク郡に住む女性がベッドを整えていた時、バンシーの叫び声を聞いたと言う。下のイラストを見ると、某国の17歳少女活動家に何やら似ている。

  

 

Changelingチェンジリング=取り替え子

ヨーロッパの伝承で、人間の子どもがひそかに連れ去られたとき、その子のかわりに置き去りにされる妖精、エルフ、トロールなどの子のことを指す。時には連れ去られた子どものことも指す。またストック(stock)あるいはフェッチ(fetch=そっくりさん」)とも呼ばれる。人間の子供を召使いにしたい、人間の子を可愛がりたいという望み、また悪意であるとされた。(ウィキペディアより。)

myndandmist.wordpress.co

 

Dullahanデユラハン=首なし騎士

アメリカの誇る作家Washington Irving(ワシントン・アーヴィング)のSleepy Hallowスリーピー・ホロウの伝説を思い浮かべた方は、英米文学に通じ、はたまたディズニー映画「イカボッド・クレイン」を思い浮かべた方はアメリカ通でいらっしゃる。幼い頃イカボッド・クレインが対峙した首なし騎士の場面を指を開いた両手を目にかざしつつ、観たものだった。不思議な話で、怖い者見たさに駆られていた私。ワシントン・アーヴィングは、西欧を旅した時にデュラハンについて知り、それを題材にして傑作スリーピー・ホロウの伝説を書いた。

©Wakt Disney

 

Magpieマグパイ(カササギ、カチガラス、コウライガラス)

カササギを一羽だけ見ると、見た者に災いをもたらすいう迷信だが、アイルランドでは厄介な悪賢い(と言われる)カラスは数羽が集団で悪さをして農民に敵対する一方、 単独行動のカササギは、集団で悪さをするわけではないが、その分、見かけた者には、このカラスに似た鳥が何をしでかすのかと恐怖心を与えるのだと言う。カササギの民間伝承のアイルランド語版と英語版にはいくつかの違いがあるが、一般的な信念は、カササギに敬意を表して敬礼することが悲しみなどの災いを食い止められると言う。逆に二羽のカササギを目にすることは喜びをもたらすと言われる。 私は18年前長女の大学への引っ越しの手伝いで夫とその州に行った時、荷物を取り出して部屋に収めてから外へ出ると、そこに一羽の美しいカササギを見たのだった。その直後に夫の携帯電話に長男の友人の訃報が入ったので、とても驚いたのだ。

 

カササギにとっては別に悪いことをしている鳥ではないから、いい迷惑だろうと思うが、実際のカササギは、鳥類としては大きな脳を持ち、鳥類でただカササギだけが、ミラーテストに合格した。鏡を見てその姿を自身と認識できる鳥である。

 

鏡と言えば、南加の家のガラージでヒビを入れてしまった鏡。その後7年間ついていないことが続いていたのは事実である。姉のひとりが癌で亡くなり、空き巣盗難に遭い、一台の車ごと持って行かれたし、とにかく大小さまざまな災難が立て続けに起こった。7年目にこちら中部カリフォルニアへ夫は転勤し、一家で引っ越してきた頃から、やっとそうした災いが収まったのだった。迷信とは言え、実際に経験ができると、果たして迷信と笑い飛ばせるのやら。試しの世だから、たくさん試されていたのだろう。

 

それではどちら様もアイリッシュであろうがなかろうが、カトリックであろうがなかろうが、Happy St. Patrick's Day!

 

 

 

 

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Dr. Seuss

2020-03-15 | アメリカ事情

 

 

 

あれはいつだったのかはっきりとは覚えてはいないが、小学生の頃、母が、Dr. Seuss(ドクタースース)のThe Cat In The Hat(邦題:「ぼうしをかぶったへんなねこ」、あるいは「ハットしてキャット」)とGreen Eggs and Ham(邦題:「緑の卵とハム」)という二冊の英語の絵本をくれた。この本は日本語にはないアナペスト韻脚*が多く使われているから、将来英詩の韻を踏むことに親しみをおぼえるだろう、などと母は思ったのかもしれない。Dr. Seussの絵本は、私の子供たちや孫たちには、役立っているとは思う。

*アナペスト韻脚とは:(anapaest or anapestantidactylus弱弱強格)は、詩に使われる韻脚のひとつ。英語詩などアクセントのある詩では、2つのアクセントの弱い音節の後に1つのアクセントの強い音節が続く。

 

ところが、この絵本を貰った時、私はすぐに、それを放り出した。「大嫌いだ」と思ったのだ。それは奇妙奇天烈な生き物ばかりだったし、色使いも不思議で、むしろかつて母自身が絵筆で描いた「かぐや姫」のほうがずっと好きだった。母は姉たちや弟と私、5人の子供たちに紙芝居に仕立てて遊んでくれたのだ。その紙芝居は今でも日本の姉が大事に保存している。

 

Dr. Seussは、日本でもおなじみかもしれない。クリスマスのグリンチは、もうずいぶん前にアニメィションになり、その後ずっと経ってから、ジム・キャリー主演で映画にもなった。アメリカでは今でも子供たちには好かれているし、大人もこの絵本を見て育ったから、郷愁を感ずるようである。夫もそんな一人だが、私は、どうしても未だに好きではない。それは、当初は絵が嫌いだったのもあったが、もう少し年かさになってから、知ったことが原因でもあった。

 

3月2日は、この漫画家作家、本名Theodor Seuss Geisel、つまりDr. Seuss(ドクタースース)の116回目の誕生日だった。これが例えば、「アウル・クリーク橋の一事件」の作者、Ambrose Gwinnett Bierce(アンブローズ・グゥインネット・ビアーズ)の6月24日の178歳の誕生日ならば、その名にちなんでAmbrosia Salad(アムブロージア・サラダ=アメリカ風のフルーツサラダで、ミカン、パイナップル、ミニチュアマシュマロを、クリームなどであえたもの。)を誕生祝いに作りたい、と私は思ったかもしれない。(ところがビアーズは1913年12月26日以来、消息不明が噂され続けて久しいので、せめて安らかにあるように、と祈りたいところだ。)閑話休題、このドクタースースはドイツ系の両親が、将来獣医になるようにと期待したが、そうはならず、その代わりペンネームにDr. を使ったと言う。彼は名門ダートマス大学へ進み、さらにオクスフォード大学へ留学した。高校生の頃からサッカーをしながら、美術にも興味を示し、やがてイラストレイター・漫画家としてリベラルな新聞社に働いた。その後アメリカ有数の絵本作家として名を挙げていった。

 

過去23年間、ドクタースースの誕生日は、ドクタースース事業団と共同で全米教育協会が主催するイベントである「Read Across America Day」(アメリカ全土読書の日)が毎年開かれる日である。何百万人もの生徒が参加している。

 

65歳未満で、スースの作品にあまり精通しておらず、子供時代(および育児期)に彼の作品に影響されていないひとはほとんどアメリカではいないことだろう。それでも、クリスマスを盗んだグリンチの作者として「聖別」されているとしても、実は暗い過去があったことを知る由もないかもしれない。例えば。。。

 

 Green Eggs&Ham(緑色の卵とハム)には過去にいくつかの汚点ともいうべきことがある。テッド・クルーズ上院議員が2013年9月のオバマケアに反対する長丁場のスピーチで、Green Eggs&Hamの本を読んだことを覚えていらっしゃるかもしれない。アメリカのニュースミディアのひとつポリティコは、多くのアメリカ人にとってほとんど崇拝さえされている「聖なる」詩をクルーズが「濫用した」ことに反対するために、良識専門家を呼び、その意見を聞いた。とある教授は、「スースはリベラルな民主党員であり、存命ならば、クルーズ議員のような人々(つまり共和党員)に忍耐を持たないことだろう」と答えたのだった。

 

Green Eggs and Ham

テッド・クルーズ議員はおそらくここを何度も読んだことだろう。

 

しかし、スースが第二次世界大戦中に特に苛酷な方法で日系アメリカ人を侮蔑し、その誇張したステレオタイプの日系人像を描き、悪用したことも覚えておく価値はある。彼は優れた「リベラルな民主党員」であり、少年時から、FDR(フランクリン・デレノア・ルーズベルト大統領)に傾倒していた大ファンであった。それ故、スースは日本に祖先を持つ、日系人を強制抑留することに声高に大きく支持をしたのである。侮辱するためにスースは、人種的偏見に満ちた漫画を喜んで描き、出っ歯で、常に丸い眼鏡をかけた大げさなステレオタイプの日系人を好んで描いたのだった。

 

 

少しでもス―スの「名誉」のために付け加えると、日系人に対する人種差別的なヒステリアに関与したことについては戦争直後に彼は数々の試みをもって日本人や日系人への謝罪をしようとしたが、最初の機会に軍用のフィルムで日本への考え方をあらためる作品を作ったところ、マッカーサー元帥に、そこまで譲歩することはないと却下されている。その後彼はDesign for Deathという映画を製作、これを使用して、敵対する政府と抑圧された民間人との区別について非常に強力なメッセージをアメリカに送った。 この映画は、1947年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞したが、彼自身の改心をアメリカ国民に伝えようとするドクタースースの試みの始まりのひとつだった。

 

1954年に出版されたHorton Hears a Who(邦題:ホートン/ふしぎな世界のダレダーレ)の絵本は、反日感情に対する彼の(下衆な)役割に対する謝罪として受け止められ、未だ広く読まれている。この絵本のホートンは、非常に小さな町であるフービルでただ一人聞くことができ、「どんなに小さくても人は人だ」と宣言して、どんな小さな者でも保護することを誓う。 このように、ドクタースースの人気の子供向けの本は人は皆平等であるというレッスンを促進しようとした。そしてそれはドクタースースは、自身が学ばなければならなかったものだとよく知っていた。

 

 

そして、彼が書いた別の本「ス二ーチス」では、スニーチスたちはあからさまな差別のシンボルである。 スニーチスビルでは、彼らは他との違いが些少に表わされ、ヒューマンビルでは、彼らが差別の対象として表されている。 人間(およびおそらくスニーチスたちも)が、その見た目のために人々を差別してきたすべての時代を思い起すように、と書かれた。この物語は南部貧困法センターの「寛容教育(誰もを受け取めようという)」カリキュラムで使われ、「違い」に寛容であることを教えている。

 

 

戦前戦中の、つまり私の知らない時代のドクタースースの過ちとその謝罪を私は認めるが、自ら手に取って今晩は、彼のいくつかの絵本の一冊を孫に読もうとは思わない。夫や子供たちに任せよう。それは幼少の頃と変わらない理由、絵が好きではないからである。過ちが過去にあり、それを後悔し、謝罪することに関しては、水に落とした釘であると、私は受け止める。水に傷はないが、釘は拾われるまで水底に残る。そしてその釘をお拾いになられるのは、神以外には誰も存在しない。

 

 

 

 

 

 

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こんな時だから

2020-03-13 | わたしの好きなもの

Livin3

強くあれ、物事はよくなるから。今は暴風雨だが、雨は永遠に降り続けはしない。

 

 

 

 

あるモールの入り口には黒板が設置してあり、頻繁にきちんと書かれた肯定的で感動的でさえある引用文が書かれていて、それを読む人に平和と喜びの気持ちをもたらしてくれる。 

 

世界は、今、特に混沌として、目に見えない恐ろしい細菌に脅かされ、重いものを心に抱えて、人々はほとんど何も考えずに人生を急ごうとしている。

 

だから、なんと素晴らしいことかと私は思うのだ、誰かが自分の一日からちょっとした時間をかけて本当に素敵な地に根をはった考えを書き示してくれて、それを通りがかりに読む私の心を高めてくれるなんて。

 

世界には、まだ生きる意義と希望を見つけられ、他の人とそれを共有するのに十分な注意を払っている人々がいる。

 

暗闇がないと星は輝けない

 

 

そして、長男一家からの今朝のテキスト・メッセージ:

When you can't find the sunshine,

Be the sunshine.

太陽の光が見つからないとき、

あなたが陽光となって。

 

ありがとう、息子一家。

これは私のオフィスにあるホワイトボードの落書き:除菌剤やトイレットペイパー売り切れ・在庫なしの毎日に対して。

Lysolライソルは除菌スプレイで、その一缶を$150で売りますので、詳細はエドガー(同僚)まで。

ミシン目とミシン目の間の一枚分のTP(Toilette Paper=トイレットペイパー)$2でお売りします。

こんな時だからこそ、笑わなければ。

 

そしてこの歌を。Dream a Little Dream of Me, 1968年のMama Cass Elliotで。

Source: LyricFind
Songwriters: Fabian Andre / Gus Kahn / Wilbur Schwandt
Dream a Little Dream of Me lyrics © Warner Chappell Music, Inc, T.R.O. Inc.

 

 

Stars shining bright above you
Night breezes seem to whisper "I love you"
Birds singing in the sycamore tree
Dream a little dream of me
Say "Night-ie night" and kiss me
Just hold me tight and tell me you'll miss me
While I'm alone and blue as can be
Dream a little dream of me
Stars fading but I linger on, dear
Still craving your kiss
I'm longing to linger till dawn, dear
Just saying this
Sweet dreams till sunbeams find you
Sweet dreams that leave all worries behind you
But in your dreams whatever they be
Dream a little dream of me

夜空らの星があなたにさざめき
夜風が「愛している」とささやき
スズカケの木で鳥はさえずる
ちょっとでも私の夢を見て
「おやすみなさい」と言ってキスして
私を抱きしめて、愛しいと言って
一人ぼっちで限りなく憂鬱な私
ちょっとでも私の夢を見て、あなた
星の輝きは消えていき、それでも私はここにまだ居るの
キスをまだ望む私は夜明けまで起きているの、あなた
ただこれだけを言うの
朝日があなたを見つけるまで素敵な夢を見て頂戴
患い事をすべて忘れさせる素敵な夢を
でもあなたの夢の中の誰であれ、
ちょっとでも私の夢を見て

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絨毯の青いしみ

2020-03-11 | 重要なこと

 

 

 

ーこれは2018年4月23日のフェイス・ブックから。

 

先日のある晩、娘が指についたスライムをどろりと床に落とした後を私は、ごしごしときれいにしようとしていた。我が家ではスライムが大人気で、粘着性のあるねばねばした混乱の後が床によく残っている。娘はその大方を取り除き掃除したが、私はスライムが浸みたタイルのグラウトをこすりつつ、少しイライラし始めていた。スライムが見渡す限りどこにでも落ちているように感じたのだった!けれどもその時私は突然かつての記憶がよみがえってきた。 。 。

 

14年前。 。 。

 

それはほとんど寝る時間だった。もうこれで眠れる、という時だった。この夜の暑気もあり、私は疲れ果てていた。2歳になる三つ子と4歳の長男の一日はまだ終わりそうになかった。私には自分のための時間など、全くと言っていいほどなく、最後にシャワーを浴びたのは四日前だったろうか。まるで1秒ごとに子供たちの必要に私は応じていたので、疲労困憊していたのだった。私が子供たちの世話をする以外の方法はなかった。私の手はふさがり、私の心もいっぱいだった。

 

毎晩恒例の習わしは、夕食と入浴を終えてから、男の子たちをプレイルームに集めて、就寝前の数分間そこのかたづけをすることだった。ラジオからはいくつか歌が流れ、それに合わせて皆歌い、踊りながら、おもちゃを拾っていた。

 

私はすぐにおもちゃを片付け、シャワーを浴びるのに数分かかるかもしれないので、子供たちをさっさとベッドに入れたいと思っていた。突然、男の子の一人が「あーあ」と言うのを聞いた。

 

私がふりむくと、ちょうど三つ子のひとりの手の中でペンが壊れ、カーペットのそこら中に青いインクが飛び散るのを見た。青インクが手から滴り落ち、その子の着ていた清潔なパジャマにも降りかかっていた。

 

私は床のあちらこちらに青いインクが、まき散らされて新しいカーペットにみるみる染み込まれていくのを見て、息を呑んだ。すぐに、台所で皿洗いをしていた夫に、来て助けて、と叫んだ。私はすぐに動揺しつつ、息子をつかんでトイレに連れて行って手を洗ってやり、夫はカーペットの明るい青色の汚れをごしごしととろうとしていた。

 

欲求不満の涙が私の目に溢れた。とても疲れていた。そして怒っていた。本当に、本当に怒っていた。私はインクでスマーフのように青くなった息子に対して怒っていたのではなく、幼児が手の届くところにそのペンを置いていたことに腹を立てたのだった。私たちはこの家にまだ6ヶ月しか住んでいなかったのに、カーペットは完全に台無しになってしまった。

 

その夜、そのシミを1時間こすり取ろうとしたが、それはまだ残っていた。

 

翌日、カーペットクリーナーに来てもらった。 。 。彼らはそれを数回洗浄処理したが、そのシミは消えなかった。 。 。そのシミはただ私を明るい青さで睨み返していた。

 

私はそのシミを見てはがっかりした。それはとても醜く、薄い褐色のカーペットの上で際立っていた。何をしたとしても、その頑固な汚れは残った。その汚れは私を当惑させ、失望させた。腹立てさせ、幼い息子がそれを容易に手にすることができるところにペンを置いた私の愚かさを、いつも思い起させた。その青いシミは、私の人生でただひとつの大きな否定的なものだった。どれほど嫌いだったことか。

 

翌月、私の可愛い息子、カーペット全体に青インクを散らした子は、癌と診断された。 2年後、彼は亡くなってしまった。

 

私の息子はいなくなってしまったが、あの青いインクのシミは? まだそこにあった。 。 。それは私の息子を常に思い出させてくれた。それはなんと些細なことに、生涯においてちっとも重要でない何かに対して、私があれほどの不満をもったのかを常に思い出させた。 。 。。

 

その青いシミは、人生が乱雑であることを常に思い出させ、そこに実は生きる価値があるのだとわからせる。

 

小さなことにくよくよすることはないのを常に思い出させる。

 

「物」は重要ではないが、人は重要であることを常に思い出させてくれる。

 

事故は発生することを常に思い出させる。

 

ささいなことを手放し、重要なことに固執するよう、常に思い出させてくれる。

 

長年にわたって、そのシミは消えることはなかった。薄い褐色のカーペットの上は明るい青のままだった。私たちは家具の下にそれをうまく隠すことを学んだが、徹底的に掃除をして家具を移動するたびに、その汚れがそこにあり、私を見つめていた。それを見るたびに私は息が止まり、喪失の痛みを思い出すのだ。

 

そして、かつて目障りで、私を泣かせていたシミは、今、私が(亡くなった息子の)思い出を神に感謝させるのだ。

 

人生はきれいごとじゃないということを思い出させてくれる。キッチンの床に何かこぼれたり。金魚が車の中に落ちてしまう。野球のボールで窓は壊れる。洗濯物であふれたバスケットや、洗う皿があふれているシンク。指紋だらけのドアのガラスやクレヨンの散らばっているテーブル。そして、新品のカーペットに青いインクの汚れ。

 

けれどもそれらの混乱は、私たちが生きて、愛し、成長し、学ぶことからくるのだ。そうしたことは私に感謝を感じさせる。そして、それは変装した祝福でもある。

 

そして、あなたはご存知だろうか?

 

カーペットの上に100万個の青いインクのシミができても私は構わない、もう一日息子と一緒に過ごせるならば。

 

私は床全体にそのスライムが混沌としてあるのを見て、あの青い汚れを思い出した。病院で病気の子供に寄り添っている母親がどこかにいることに気づく時、とても謙虚になれる。 。 。その母親が家にいて、自分の子供がいろいろな汚れを作るほどに十分な健康状態であり、病気とは縁がなく、ああ、早くその汚れを片付けたい、と願っているようにと願うのだ。。。ちょうど私が数年前にそうであったように。

 

そのスライムの汚れを新しい観点できれいにしていると、私の頬を新鮮な涙が流れ落ちた。この混乱の中で祝福を見つけ、神に感謝し続け、人生で本当に重要なことに集中するようにと、ささやいてくださる神に感謝している。

 

コロサイ人への手紙第3章第2節 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない

 

XO XO(キスとハグと共に)
ヘザー・ダックワース

絨毯の青いシミよりもこの息子の笑顔は、ずっとずっと重要だった。。。

 

 

 

 

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