ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

大きなハグ

2024-03-12 | アメリカ事情
多くの陽の光、微笑み、そしてハグが今日あなたにありますように!


大学院で働いていた時の同僚のリンダは、すでに引退を数年前に済ませ、悠々自適な生活をしている。そして私の病中、病後の今でも日々励ましのテキストを送ってくれる。そんな彼女のテキストの一つをご紹介。


*******


今日、セルフサービスのレジに行ったとき、後ろの人がほんの少ししか品を持っていなかったので、私の先に行かせました。

この可愛らしい女性は知的障害があり、支払いの段になると、カード専用の機械が小銭を受け取らないことを知り、非常に動揺し、混乱してしまったよう。

そこで私は手を伸ばして「ちょうど、これを持っていますから」と言ってカードを機械にタップしました。 すると女性は満面の笑みを浮かべました。

彼女:「まぁ、よろしいんですか?」と彼女は言いました。

私:「もちろん、それでは素晴らしい一日をお過ごしくださいね。」

彼女:「あぁ、ちょうど今日土曜日は私の誕生日なんです!」

私:「あら、それならば、お誕生日おめでとう、これが私からのプレゼントですよ。」

彼女:「わぁ、どうもありがとうございます、ご親切なご婦人!」

そして、彼女は私を抱きしめようと両手を大きく広げたので、そこへ私は飛び込みました!

今日は、私には本当にその抱擁が必要でした。


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そんな友人を持つ私の1日も素晴らしい日になった。
ありがとう、リンダ!

大丈夫じゃなくても大丈夫。
他の日よりも難しい日もあります。







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隣人

2024-03-10 | アメリカ事情


先日、日本の某新聞オンラインで、読者が色々なことを投稿する欄に目を通していた時のこと。ある一つの投稿に思わず気持ちが動いた。それは投稿主のお宅の隣に建てられたばかりの家に越してきたまだお若い家族から、「なんの挨拶もない」という憤慨気味のものだった。住宅事情も、ナワバリ意識があるのかと多少驚いたが、「新入り」さんが下手(したで)に出て「先住民」にご挨拶をするというマナーがない、と言うことらしい。そして私は思い出した。我が家が南加からセントラルヴァレーに越してきた27年前のことを。

越してきて最初の日曜日朝に家族7人で教会へ行き、帰宅後にホームメイドクッキーをペイパープレイトに沢山盛り、新居の我が家へ初来客がお見えになった。その朝教会でお会いしたばかりの3人の息子さんをお持ちのご夫婦(ケヴンとビバリー)で、「よくこちらまでいらっしゃいました。お近づきに、どうかこのクッキーを召し上がってください。」と挨拶にいらしたのだ。

おふたりがお帰りになるや否や、育ち盛りの15歳から7歳の子供たちが5人いる我が家で、そのチョコレートチップクッキーは、もちろん、あっという間に消え失せた。ありがとう、ビバリー。

その他の新しくお目にかかった方々には、すぐに「あ、新しいご家族ですね、よくいらっしゃいました。」と学校でもご近所でもお声をかけていただいた。住む袋小路のお隣は8軒で、早速袋小路だけのブロックパーティを催してくれた。8軒は8軒とも同時期に家が完成したばかりだったが、皆すぐ仲良しになった。ここの方々はなんと友好的で思いやりがおありになるのだろうと驚いたものである。アメリカでも、あるいはアメリカだから、気軽に親しくなる。挨拶の順番などなかった。

クッキーをいただいたご夫婦とそのご家族とは、それ以来ずっと楽しくお付き合いをしてきて、少し前にビバリーの出身地の南部の州に越していかれた。それでも夫の訃報をインターネットで見つけた息子さんのおひとりが、家族に知らせ、お花とカードが郵送されてきた。そのカードはとても優しくて、教会での、ご近所での楽しかったことや、また夫についても思いやりにあふれる文章がカードの全面に細かく書かれていて、心が打たれた。


綺麗な花をどうもありがとう、ケヴンとビバリー。

6年ほど前、まだ南部へお移りになる前、そのビバリーに手術不可能な脳腫瘍があるとわかり、良性ではあるが、本来なくて良い物故に、放射線治療をすることになった。その時、めまいや立ちくらみが頻繁に起こり、食欲をなくし、終日ブラインドを引いた薄暗い寝室に休んでいるとお聞きした。

ご夫婦は我が家同様に、その頃すでに空の巣族のお仲間になっていらしたので、ケヴン用に温かい食事を用意し、ビバリーには口当たりのよい果物や喉越しのよいジェラティンの物をお持ちしていた。

治療過程が半ばに入ると、長々と続く闘病生活から、鬱々とした気分になってしまうとお聞きし、お目に優しいようにうすいピンク系で、芳香がほとんどない薔薇を2打ばかり選び、いつもの生花会社から例の長いブルーの箱で配達してもらった。

配達されるとすぐ涙ながらに感謝を申される電話がかかってきた。薄暗い寝室にそれこそパッと花が咲いたかのように優しい光さえ放って見えるの、と彼女は声をつまらせつつ話した。

その後治療は終わり、少しずつ健康を取り戻して、平常の生活に戻ることができ、3番目の息子さんも結婚なさった。その披露宴ですっかり元気になられたお姿を見て、どれだけ私たち夫婦は喜んだことか。

ご夫婦はやがて引退することになり、それならば余生は住み慣れた南部州にある彼女の生まれ故郷へ、と移って行かれた。

日本的に言えば、本来新参者が元からいらっしゃる近隣へご挨拶に伺うべきなのかもしれない。アメリカでも、アパートやタウンハウスにお隣お向かいに新しい入居者が、ちょっとした挨拶に、ということはあるが、はっきりしたしきたりではない。

よく不動産会社が家を売却した際、お礼をこめて、贈るちょっとファンシーな物が入ったバスケットや、ホテルに泊まる時、部屋に置いてある果物やチョコレートなどの入っているバスケットは、知られているかもしれない。そう大掛かりではないが、前からお住まいの方が、友好的にWelcome Basket(歓迎のバスケット)と言って、文字通り籠に、新鮮な果物、野菜、焼きたてのパンやお菓子、などを入れて、新入居者へ持っていくことが結構ある。

住む州や市などの場所によるが、新しい隣人には、たとえば小児科、内科、歯科医、などのリストを食物などに添えていることもあり、そう言う点は便利で、ありがたいものだ。

南加に住んでいたのは、町外れの住宅街で、その袋小路になった住宅に越した時は、お年寄りが沢山お住まいで、クリスマスやイースターの折には、幼かった子供と一緒にクッキーププレイトをいくつか用意し、子供たちがお隣に配り、ついでに何かできることがあれば、おっしゃってください、と言い置いたものだった。家庭菜園の綺麗な野菜をお持ちしたりしたこともあった。

その時、子供たちはご近所への心配りを習い、楽しいと思ったと言う。何故なら、両家の祖父母からは遠く住み、代わりにご近所のお年寄りの方々が、子供たちが袋小路(我が家の住宅へ希望は安全を考えて袋小路が条件である。)で自転車に乗ったり、遊んでいると、声をかけてくださったり、とても親切になさってくださったからだ。子供ながらに、親切は自分から始めるものだ、と感じたらしい。

その日本の新聞の投稿記事を読み、その「先住者」が、「新入居者」の挨拶がないと憤慨なさっているのを、私は不思議に思ったのだ。「それでは先住者として歓迎のご挨拶をなされば、憤慨したり、ヤキモキなさることもないだろうに。」と思ったのだ。やはりそう言う点、年功序列的な法則が日本のしきたりの底辺にあるのかもしれない。礼儀正しく、お互いを思いやるのが日本人と思われているのに、ちょっと残念だと思ったのは否めない。








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フロリダの未来

2022-10-13 | アメリカ事情

Photo Credit: Kitson & Partners

フロリダの未来がここにある。

 

 

 

先日のハリケーン・イアンのフロリダ襲撃は甚大な災害をもたらした。AccuWeather(アキュ・ウェザー)社 の創設者兼 CEO である ジョエル・マイヤース博士によると、ハリケーン・イアンによる米国の損失総額は1,800億ドル(約26兆2,428億9,254万9,934円)から 2,100億ドル(約30兆6,167億797万4,924円)に達する見込みだと言う。 データ会社 Enki・Research (エンキ・データ)の予測によると、このハリケーンによる経済的損害は 最大750億ドル(約10兆9,345億3,856万2,473円)。 同社は、イアンが米国史上最も被害の大きかった10の暴風雨の1つになると述べた。 10月10日現在では、おそらく100名が犠牲となったと思われている。

10月9日CBS局の番組60ミニッツを観て、その被害状況を目の当たりにして惨憺たる思いに駆られたのだが、その後に報道したトピックには、一つの実現可能な希望が見えた。 以下はそのセグメントの概要である。

 

Photo: Mark W. Wilkerson

 

大きな被害を受けたフロリダ州フォート・マイヤーズは、ハリケーン・イアンからの回復を始めている。 そのひどい損傷を受けたフォート・マイヤーズから、北東へわずか12マイル (19.3キロ) にあるのがバブコック・ランチの計画されたコミュニティある。シッド・キットソンと彼のパートナーは、Sustainable Development Goals (SDGs)可能な環境にやさしく、ハリケーンにも耐える、完全に持続可能な町をアメリカで初めて建設することを望んでいた。

環境に配慮を真面目に念頭に置く開発者で元プロ フットボール選手のキットソンは、バブコック・ランチでハリケーン・イアンを見事に乗り切ったのだ。信じられないことに、嵐の最中に5,000人の住民のうち停電したのは誰一人もいなかった。

キットソンは、10月9日日曜日夜の番組CBS「 60ミニッツ(60分)」で特派員リポーターのビル・ウィテカーに、「私たちは的を射ていたのです」と語った。 「そして嵐の時、私はここに座っていたことを覚えています。 私は天気予報を観ていたのです。 気象担当者は、『このカテゴリー 4のハリケーンは今、バブコック・ランチに向かっています』と言っていました。」

「そして、それはバブコック・ランチに向かっているだけでなく、最悪の場所を壁とするとその東側になるでしょう」と言っていたとキットソンは言った。

「ハリケーンはどれくらいここの頭上に留まっていたのでしょうか?」とウィテカーは尋ねた。

「約8時間から10時間でしたね。」とキットソンは答えた。

嵐の最中、キットソンが iPhone で撮影したビデオでは、湖に大きな白波が立っていた。

「そのため、翌朝太陽が昇るとすぐに、車に飛び乗って車を走らせました。 被害は、2、3の倒木と屋根の瓦が2、3枚だけでした。」とキットソンは言った。 「それだけです。だから私たちの地域の修復はほぼ1日で済みました。」

バブコック・ランチは、フロリダの気候と生態系に適応するように設計されており、土着の植物と排水用の自然の水路がある。 さらに高潮による洪水を緩和するために、海抜 25 ~ 30 フィート(7.62~9.1m)の高さに嵩上げして建設された。 持続可能な上下水道システムがあり、すべての電線と電話線が埋設されている。

「私たちはアメリカで最初の太陽光発電による町です。」とキットソンは語った。 「150メガワットの太陽光発電所があります。」

それはフロリダ電力会社によって構築された700,000枚のパネルを配列させた巨大な太陽光発電所である。それらのパネルは、ハリケーン・イアンの残忍な殴打に耐えたのだ。

 

CBS News: Babcock Ranch

太陽光熱パネルが海のように700,000枚きっちりと配列され、イアンの強風にも浸水にも一つのパネルも壊れなかったし、吹き飛ばされなかった。

 

「(パネルの地所には)多く水が入り込んでいますが、取り外され、破壊されたパネルは 1 つもありません。 ここ数日、かなりの風が吹いていたのですが。」と キットソン氏は語った。 「時速150マイルを超える突風でも、ここから 1 枚のパネルも飛ばされませんでした。これは本当に驚くべきことです。」

「それは、たまたま、洪水に流されたフロリダのほとんどの地域よりも高地レベルにいることが幸運だったのではないですか?」とウィテカー記者は尋ねた。

「それは(高地に位置していることは)重要ですが、強風や洪水、豪雨の場合はそれだけではよいとは限りません。インフラが適切に構築されていないと、家屋が浸水することになります。」とキットソン氏は述べている。 「そして強風による被害を受けるでしょう。 特に、時速 150 ~ 160 マイルの風が吹いていれば。 もし、これが適切に構築されていなければ、どんな家屋も崩壊したでしょう。」

キットソン氏によると、バブコック・ランチには現在約 5,000 人が住んでいるが、近く50,000人の居住者に増やしたいという願望があるそうである。

 

Naples Daily News

 

教会の歌に、「賢者は岩の上に家を建てる」という子供向けの歌がある。それはキリストの山上の垂訓からの譬え話からで、幼い頃から夫も私も子供たちもその歌を知っている。 今回のハリケーンの凄まじい被害状況に、この歌が脳裏を駆け巡ったのは誰も否めない。 そしてシッド・キットソン氏とその仲間の叡智と信念は、多くが学ぶことによって将来フロリダ州民以外の人々をも自然災害から救う可能性が大きい。

長男はフロリダ各所で眼科医のレジデンスとして4年のうちの3年間を勤務医をしながら専門分野の角膜について学び、やっと昨年それを終えて、南カリフォルニアの大学病院で、フェローとしての一年を来月で終了することになっている。 その後来年の一月までその大学病院に教授として医師として勤務し、その先はすでに南フロリダで開業することに決まった。 

息子は、フロリダは東西南北の地を経験し、バブコック・ランチについてもすでによく知っていて、少し高価だが、ハリケーンの被害額が数千億ドルに上ることもあることや、何よりも大切な人命が失われることもあるのを鑑みると、その対価は適正と言えようか。 

このキットソン氏の構想が、実現可能であり、実用的なのはハリケーン・イアンで今回証明された。 あとはフロリダの他の自治体や建設会社などにそれが広がり、人の命を守り、ライフラインを確立させた安全で丈夫で長持ちするコミュニティがこれから増えていくことを切に願う。 そうすれば、洪水や浸水に悩む他州にも大きな恩恵をもたらすことだろう。

 

 

 

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狩人と流星雨とヴァイキングの10月

2022-10-08 | アメリカ事情

almanac.com

満月を頭上に抱くようなエルク(アメリカアカシカ)

 

 

 

 

今週に入って気温は少し上がり、100度Fまで届きそうな日もあるが、朝晩はさすがに涼しい。 秋は一番好きな季節で、それは夜空が美しく、空気もどことなく澄み透っている感じさえし、屋内にいても、夜は落ち着いて読書や調べ物(系図関係は特に)に余念がなくなる。 アメリカ西部には東部ほどのスペクタキュラーな紅葉がないかもしれないが、それなりに美しい紅葉はある。 大学のキャンパスでさえ、木々は非常に美しく色変わりをする。 秋が来た、と実感するのは、学舎やオフィスのある建物の廊下に、人々が踏み締めてきた靴についている落ち葉がはがれ、床に残っているのを目にする時だ。

秋分で季節が変わり、暗い夜空が待ち受けている今は、明るい惑星や流星群を見るのに最適である。 まず手始めに、10月8日~9日のジャコビニ(10月りゅう座)流星群がある。 しかしながら、10月9日の満月のために明るすぎる傾向があるかもしれない。 もし見られるとしたら、10月8日夜遅くの北西の空がベストだと言う。(ただしこれは米国西部にて。) 

この流星群は、北西の夜空にドラゴン(龍)である龍星座から放射される。 この流星群は主要な流星群ではなく、1時間に約6個の流星だから大したことはない。 このあと12月13日と14日に起こる双子座流星群は、1時間に75個の流星が見られる壮観なものだ。 それは夏8月のペルセウス座流星群の1時間に50個の流星よりも多く、圧巻である。 オフィスのカレンダーにまで流星群の日にちを赤ペンで書き込んでいる私。

 

さて、近年ではインターネットのおかげだろうか、少し前までは日本では気にもしていなかったアメリカ原住民の各満月の呼び方まで話題にあがるようである。 この10月9日の満月は、ご存知のように狩人の月である。 

almanac.com

これは過去に何度かブログに書いてきたが、東部原住民の満月の呼び方には納得が行くことが多い。 特に北東部の原住民は雪深い厳冬に備えて今頃は、狩猟や森林の木の実や果実採集に忙しかったことだろう。

満月の10月9日は、実は真にアメリカ大陸を発見したアイスランド生まれ、グリーンランドで生涯を過ごしたノース(ノルマン)人航海人(ヴァイキング)、Leif Erikson(レイフ・エリクソン)の日である。少なくとも北米や中南米では。 

今から1000年ほど前、グリーンランドの西には森林と鮭の遡上があり、平野部には野生の小麦も育っている地があるとアイスランドでは囁かれていた。(ということは、レイフ以前に誰かは新世界を発見していた) 航海人たるレイフは、そこで西への航海を始めて、おそらく現カナダのニューファンドランド島やバフィン島に到着したようであった。

そして南下して現在の合衆国ニューイングランド地方の海岸部へも行き着いたようで、そこをVinland(ヴィンランド=葡萄のなる地)と名付けた。 しかしながらアメリカ原住民との軋轢などから、入植には至らなかった。 結局レイフはグリーンランドへ戻り、ノルウェイ王の影響でキリスト教に改宗し、グリーンランドでキリスト教を広めた。 こうしたことは史実としてアイスランドの古文書には記されている。

合衆国では19世紀以来、10月9日は、レイフ・エリクソンの大陸到達を記念するレイフ・エリクソンの日としているが、実際には10月第2月曜日に連邦祝祭日と制定されたクリストファー・コロンバスの方が広く知られている。

先月次男は出張でたまたまアイスランドのレイキャヴィックに行き、いくつか写真を取って送ってくれたが、その一枚に、首都レイキャヴィクの完成に40年以上費やした有名な教会堂Hallgrimskirkja(ハットルグリムス)の入り口付近に佇むレイフ・エリクソン像がある。

この教会堂のデザインは、アイスランドの溶岩玄武岩の風景になぞらえているそうだが、私にはヴァイキング船の舳先(へさき)を模しているように見える。 よし、この風景を実際に目にすることを私のバケット・リスト*に追加しよう。

*死ぬ前にやることのリスト

大きめなレイフ・エリクソン像

askideas.com

 

 

 

 

 

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鳥瞰な旅

2022-10-04 | アメリカ事情

カリフォルニア州聖なるシャスタ山

 

 

 

 

今年も長姉の夫の日本風に言えば6回目の命日がやってきた。 毎年義兄の逝去の日には未亡人となった子のない姉を訪ね、多くの思い出を聞き、語り、姉妹の時間を楽しく過ごすが、今年も日本の姉は来ることが出来なかった。 欧米では、まるでコロナは立ち去ったかのように人々は振る舞い、もう我慢ならぬとばかりに旅をほとんど一斉にし始め、どの空港も溢れんばかりの旅客である。 その旅客の一人になって私は、それでもコロナに影響されることなく、一度も毎年恒例の北行きを断念することはなかった。 

出発前に、花を手配していたので、命日の前日にいつもの長い箱にきっちりと梱包された花束が配達された。 姉は2ダースの花を喜び、墓地へ持っていく花を5輪ほど選んだ。 「配達される花束は、幾つになっても本当に心が躍るし、嬉しい」と、そのお裾分けを墓前に生けると、深閑としたその古い墓地に、さわやかな風が吹き渡った。 「そうなのよね、風に乗って多分世界中を飛んでいるんでしょうね」と思いながら、「今年もやってまいりましたよ」と義兄に挨拶をした。 近くには私たちの父や弟の墓石もあり、二人にも声をかけた。

たった3ヶ月前にも長姉を訪った私だが、あの時は姉の急病に忙しないことだった。 いまでは姉はすっかり体調は良くなり、それを実際にこの目で確かめたかった旅だったので、安堵もした。来月には、いわゆる「大台」を迎える姉は、ますます元気で来年の日本旅行を計画するなど、元気に生きていく気概も感じ、ほっとした。 

その旅の際には、私が付き添うことになるが、それがいつになるのかは、私の引退時期によるのだ。 来年こそは、引退致したく思っているが、日々の勤務では次から次へとやらなくてはならないことがあり、それでも引き際をしっかり線付けしなければと最近特に強く思う。 次世代に譲ることは、とても重要なことだ。

そんなことを考えながら、帰りの飛行中、加州に入った時、眼下に広がる湖や貯水湖の縁取りが幅広く白くなっているのが見え、ちょっと注意して見ると、河川もかなり干上がっているのが、わかる。 もともと加州は砂漠を含む荒野や岩地や山脈がたくさんある地だが、そこここにある森林が、空きさえして、やけに茶色い。 そんな光景が長く続き、雨乞いダンスを本気で期待するか、日常の祈りに頻繁に降雨を願わなくてはならないと思っているうち、帰港地が近付いてきた。 

すると乾涸びた荒野が不意に、緑の果樹園になって来た。 律儀なまでに真っ直ぐな列で整然と果樹園や各種の野菜が育っているのがわかり、そこに農家の勤勉さがはっきり見て取れる。 鳥瞰でなければこの小さな感動はなかったかもしれない。 

ほぼ見渡す限りのよく整頓された加州中部の農業のありように感謝の念を持った。 ここが世界の食物庫と言われるのは、温暖な気候だけが原因ではなく、開拓時代からの農家の地道な努力が大きく影響しているのだ。 当然のように期待されてきた自然の水量が底をつき始め、各農家は自力自費で地下水を利用するために、さらに深い井戸を堀り、なんとかやりくりしている。 

地球も年を取っているから、老いに伴うさまざまな障害を生じている。 それでも人は懸命にそうした障害を乗り越えてきているのを感じ、再び希望さえ持つ自身の楽天さを今更喜べる単純さ。 そして地球が引退する前に、私も引退しなければ、の思いを新たにした。

 

新たな希望を持って毎日を始め、嫌な思い出を後に残し、より良い明日への信念を持とう。

 

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