ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

尊いギフト

2018-07-31 | アメリカ事情

 

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ある女性が彼女の家から出ると、前庭に長い白い髭を持った三人の老人が座っているのを見た。彼女にその三人は見覚えがなかった。


彼女は言った、 「皆さんを存じ上げているとは思いませんが、皆さんは空腹なのではありませんか。中に入ってなにかお召し上がりください。」

「貴女のご主人は御在宅でしょうか?」と彼らは尋ねた。

「いいえ」と彼女は言った。 「彼は外出しております。」

「それでは、家の中へはお邪魔できません。」と彼らは答えた。その夕方夫が帰宅すると、彼女は何が起こったのか彼に話した。

「私は帰宅したのだから、彼らを家の中にお招きしよう。」と言った。


そこで女性は外へ出て、老人たちを招待した。「私たちは三人一緒に家に入りません」と彼らは答えた。

「それは何故ですか?」彼女は知りたがった。老人の一人は、「彼の名前は富です」と一人を指して言い、それからもう一人を指して、「彼は成功と言います。そして私の名前は愛です」と言った。そして、彼は次のように付け加えた。「さてあなたの御主人と私たちのどちらがあなたの御招待にあずかれるか、お話し合いください。」


その女性は家の中へ入って、言われたことを夫に話した。彼女の夫は大喜びした。 「いいね!!」と彼は言った。「それが事実なら、富を招待しよう。彼にいらしてもらい、私たちの家に富をもたらしていただこう。」

彼の妻は反対した。 「私の愛するあなた、むしろ成功をお招きしませんか?」

家の隅でそれを聞いていた義理の娘は、彼女自身の提案を口にした。「愛を招く方がいいとお思いになりませんか? そうすれば私たちの家は、愛で満たされます!」

「義理の娘の提案をきくことにしよう」と、夫が妻に言い、続けた。「外へ行って、愛をお招きしてくれるかい。」


その女性は出て行き、三人の老人たちに尋ねた。「あなたがたのどなたが愛でいらっしゃいますか? どうぞ我が家へいらしてください、そして、私たちのゲストにおなりください」。愛が立ち上がり、家に向かって歩き始めた。他の二人もまた立ち上がって彼に続いた。驚いて女性は富と成功に尋ねた: 「私は愛を御招待したのですが、お二人は何故いらっしゃるのでしょうか?」


老人たちは一斉に答えた:「もしあなたが富か成功を招待したならば、他の二人はここに座ったままだったでしょう。ところがあなたは、愛を招きましたので、愛がどこへ行くのにも、他の二人も彼と一緒に行くのです。愛がある所には、富と成功もあるのです!」



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家族との時間

2018-07-29 | アメリカ事情

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21年の結婚の後、私の妻は私に、別の女性を夕食と映画に連れて行ってほしいと言った。「私はあなたを愛しているけれど、この他の女性もあなたを愛し、あなたと一緒の時間を過ごしたいのを知っているの。」


その他の女性とは、19年間未亡人であった母だが、仕事が忙しいのと3人の活発な子供達がいることにかまけて、そう頻繁に彼女を訪れることができないでいた。その夜私は彼女に電話をかけて、夕食と映画のために一緒に外出しようと話した。 「どうしたの?なにかあったの?」と母は尋ねた。


母は、深夜の電話や思いがけない招待状がほぼ悪いニュースの兆候であると疑う女性のタイプである。 「おかあさんと二人で一緒の時間を過ごすのが楽しいかと思ってさ。」と私は答えた。 「私たち二人だけ?」と、母はしばらく考えていたようだったが、「楽しみにしているわ。」と言った。

 
金曜日の仕事の後、私は母を迎えに母の家まで運転したが、自分はちょっと緊張しているなと感じた。母の家に着いた時、母も私とのデートに少々緊張しているようだった。母はコートを着てドアで待っていた。父との最後の結婚記念日を祝うために着用したドレスを着て、髪をカールしていた。母は、天使のように輝く顔をして微笑んだ。 「息子と一緒に出かけるのよ、と友達に話したら、みな感動してたわ。」と母は言いながら車に乗った。 「私たちのおでかけについて聞くのを楽しみにしているの。」


私達は、エレガントではないが、とても素敵で居心地の良いレストランに出かけた。母は、ファーストレディのように私の腕に手をかけた。テーブルに着席後、私はメニューを母のために読んだ。老眼の進んだ母の目は大きな印刷物しか読むことができなかったのだ。メニューの途中で、私は目を離し、母が私を見つめているのに気が付いた。母の唇にはノスタルジックとも言える笑みが浮かんでいた。 「私も小さなあなたに、メニューを読んだものよ。」と彼女は言った。 「それじゃあ、今度はおかあさんがリラックスして私に恩返しをさせる時ですよ」と私は答えた。食事中、私たちは会話を楽しんだ - 何も特別な話ではなかったが。お互いの人生の最近の出来事についてそれぞれ話したのだった。そしてあまりに話を楽しみすぎて、とうとう映画を見逃してしまった。母を家に送り届けた時、母は言った。「おかあさんは又あなたと一緒に外出するつもりよ、もしあなたが私に招待させてくれるならばね。」 私はそれに同意した。


「デイナーデイトはどうだったの?」私が帰宅すると、妻は尋ねた。 「とても楽しかったよ。想像していたよりずっと多くのことを話したし。」と私は答えた。


数日後、母は大きな心臓発作で亡くなった。あまりに突然に起こったので、私は母のために何かをするチャンスもなかった。しばらくして、私は、母と食事をしたレストランからレシートのコピーを添付した封筒を受け取った。添付されたメモによると、「この請求書は、事前に支払ってあるの。私はそこにいないだろう、と確信してるけれどね。それでも、二名の食事代を支払ったの。一人はあなたのために、もうひとりはあなたの妻のために、よ。 あなたは、あの夜が私にとってどんなに意味があったか、決して分からないわ。おかあさんはあなたを愛していますよ。」


その瞬間、「私はあなたを愛している」と言い、愛する人にふさわしい時間を与えることの重要性を理解したのだった。人生においてあなたの家族よりも重要なものはなにもなく、家族にふさわしい時間をあげるのを「いつか別の機会」まで延期することはできないのだ、と。


2008年10月14日 ”スティヴン”が、https://academictips.orgに寄せたコメント


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今宵の月に寄せて

2018-07-28 | アメリカ事情

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七月の満月は、牡鹿(オスの鹿)の満月と呼ばれる。 現時点が、牡鹿の枝角が完全成長期である事が所以のようである。 七月の満月は、この月に雷雨が頻繁に発生するため、雷月としても知られている。こうした各月の満月の名前は、アメリカ原住民の各部族が、満月で季節を知る、つまりカレンダーとして使ったことによる。アメリカでは、大西洋沿岸から内陸部のセントローレンス川沿いと五大湖周辺に住んだ主要部族のアルゴンキンの月の名付けを使用する傾向がある。7月の満月には、他部族につけられた他の名前もいくつかある:「熟したトウモロコシ月」ーチェロキー族;「真夏月」ーポンカ族;「木の枝がたわわな果実で折れてしまう月」-ズニ族。

 

七月の満月に思い出すのは、いつだったか出会ったJames N. Matthews (1852–1910)の短詩。題名さえ忘れてしまったが、この詩人は、1868年に設置・開校されたイリノイ大学アーバナ・シャンペイン校に入学し、医学と文学(詩)を学び、優秀な成績を持って卒業した。近代的設備の整った病院のない田舎の医師として働き、又「大草原の詩人」としても数々の詩集を出版した人である。彼は1910年吹雪の中を患者の往診のために5マイル以上歩き、心臓麻痺を起こして死去した。その彼の詩がこれである。決して難しい詩ではないので、和訳はしないでおく。七月の満月が草原に「氾濫」するがごときに光を溢れさせている様子が目に浮かんでくる。

 

A moon-flooded prairie; a straying 
Of leal-hearted lovers; a baying 
Of far away watching dogs; a dreaming 
Of brown-fisted farmers; a gleaming 
Of fireflies eddying nigh, —
And that is July!

 

その満月の日、日本では台風12号襲来が危ぶまれ、遠くにいる身ではあるが、私も故国を憂えている。先の豪雨被害からもいまだ完全復興のなされていない折、心からその地域にいらっしゃる皆さまの安全を祈っている。

 

Pinterest

草原の七月の満月はかくもあらん

 

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アインシュタイン

2018-07-27 | アメリカ事情

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とある重大な科学会議へ向かう途中で、彼はその運転手が自分にそっくりだと、運転手に言う:
「私はこうした会議のすべてにうんざりなんだ。 私はいつも同じことを何度も何度も繰り返し言うんだもの!」



運転手は、それに同意して、言った。 「先生の運転手として、そのすべての会議に私も参加してきました。 科学については何も知らない私なのに、あなたの代わりに、会議を行うことができそうなほどですよ。」



「それは、いい考えだ!」 アインシュタインは言う。  「立場を入れ替わろうじゃないか!」
そこで、彼らは衣服を交換し、到着すると直ぐに、アインシュタインの恰好をした運転手が、舞台にすすみ、普通にスピーチを始め、ドライバーの服を身に着けた本物のアインシュタインが舞台のそばで傍聴し始めた。



さて群衆の中には、誰にも感銘を与えたい(つまり目立ちたい)と思う科学者が、往々にいて、アインシュタインに非常に難しい質問をして、彼が反応できないことを願っている。 この会議でも、そうした男がいて、彼は立ち上がり、非常に難しい質問をして会議を中断させた。 会場の全員がアインシュタインの応答を待って、誰もが息をひそめて、静かになる。



運転手は落ち着き払って、その質問者を見ながら、言った。
「先生、あなたの質問はとても簡単なので、私の代わりに、私の運転手に答えさせましょう。」


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哀悼

2018-07-26 | アメリカ事情

 

Pinterestから

 

 

去る7月10日は、アメリカ人にとって非常に親しみのある声優Mel Blancの命日であった。日本では日本語に吹替されているので、あまり知られてはいないが、彼は、"The Man of 1000 Voices"(千の声を持つ男)として知られ、特にバッグス・バニーに代表されるハナ・バーベラ・プロダクションの漫画作品に登場するキャラクターの声として有名であった。彼の声は、バッグス・バニー、ダフィ・ダック、ヨセミテ・サム、猫のシルべスター、などLooney Tunes/Merrie Melodiesシリーズで使われ、その他にもオリジナルのウッド・ペッカー、トムとジェリー、The Flinstones原始家族フリンストーン、あるいは日本で放映時には『恐妻天国』)などでも声優として活躍した。こうした漫画動画は、現在の日本人にどれだけなじみがあるかわからないが、アメリカではいまだに人気がある。メル・ブランクは、特徴のある様々な声音を使い分ける器用な声優・俳優・歌手であった。彼は心臓関係の疾患のため1989年81歳で死去した。なんと9歳の頃から喫煙を始めたというから驚くが、それでも81歳まで生き永らえたのは興味深い。その彼が亡くなった時、新聞には、"SPEECHLESS"と言う漫画が載った。千の声を持つ人が亡くなって、残された者が言葉もなくなるほどの哀悼の意を表している。これを見て、この意に同感した人々は多い。当時たったの5歳だった長男さえ、悲しがった。

 

https://imgur.com

 

 

セサミ・ストリートやマペット・ショウでおなじみの繰り人形師のJim Henson(ジム・ヘンソン)が、1990年、たった53歳の若さで、化膿レンサ球菌による感染症で、ふいに亡くなった。最初は感冒によく似た症状だったが、深刻な症状ではなかったのに、5日後逝去してしまった。そのニュースは信じがたく、これだけ医学が発達している時代に、とさえ皆思ったものだった。彼の葬儀は、彼の創造した人形たちが、「聖者の行進」でマーチするといういかにもハンソンらしい葬儀であった。その時新聞に載ったのが、下のミッキーマウスがカエルのカーミット(ヘンソンの代表作品)を慰めている図である。

https://www.reddit.com

「人生は映画のようなもの、自分で自分の人生の終わりを書こう。信じ続け、なにか演じるふりをし続けよう。」

 

 

ほんの子供だった私にも、1966年12月15日ウオルト・ディズニーが肺癌から併発した肺炎で亡くなったというニュースは、衝撃的でさえあった。子供だった故、享年65歳というのが、「ああ、そんなお年だったんだ、それじゃあ仕方ないかもしれない」と思えたが、今思うと、まだまだ、のお年であろう。数々の漫画名画、テレビの番組、そしてディズニーランドが、どれだけ子供達に夢を与えてきただろうか。今でこそ、彼は生前人種差別者で性差別者だった、と様々にいわゆる「政治的に正しい」(politically correct)(差別的な言葉を交えない表現の仕方:看護婦は看護師・士、年寄は高齢者など)人ではなかった、と言われるが、彼の生きていた時代は、そうした風潮がノーマルであったのは、考慮に入れていないかのようだ。


余談だが、幼少時に私の好きな子供の話の一つは、ヘレン・バナマンの「ちびくろサンボ」(英The Story of Little Black Sambo)で、これはトラがぐるぐる回るうちにバターになってしまう話で、楽しかった。 私は、主人公のサンボが肌が黒いことなど、気にもかけなかったし、この話で、有色人種に対する蔑視や差別感など、ひとつも感じはしなかった。けれど、この本は、1988年以降どの出版社も出版しなくなり、既刊されていたものも、図書館は置かなくなった。それは「政治的に正しくない」という理由からだった。 ちなみにアメリカにはファミリー・レストランで「Sambo's」が47州にまたがってあった。これは1957年に Sam Battistone, Sr.とNewell Bohnettが開いたレストランで、二人の名前から、サンボと名付けられた。ところが1980年代に入って政治的に正しくないと騒がれ、名称を変更したりしたが、結局ファミリーレストランという風潮自体がアメリカでは下火になり、少なくとも1983年までには全店廃業している。

 

そうした風潮から、ディズニーの死後彼がいかに政治的に正しくなかったかについての本も多く出版されたものだ。けれど、彼が亡くなった時、下のような画が新聞や雑誌等に載せられ、世界中が悲しがったのも事実である。

 

 

http://disneydose.com

 

 

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そしてもう一人、偉大な、と形容したいアメリカの漫画家は、Charles Monroe Schulz、チャールス・モンロー・シュルツである。ピーナッツシリーズのチャーリー・ブラウンやスヌーピーの生みの親である。彼は2000年2月12日結腸癌のため、こよなく愛したカリフォルニア州サンタロサで、77歳でこの世を去った。その作品は温厚で、キリスト教の下地を持ち、どの国の人々にも好まれていた。まさに彼の人柄そのままであった。彼自身は、「私はもう教会に行くことはありません...すべての人間や私たちが住む世界への世俗的人道主義に近づいていると言えるかもしれません。」と言ったように、晩年、特定の教会・教派には属してはいなかった。娘の一人がある教会に改宗して、18か月の英国伝道に赴いた時は、彼女に漫画付きの思いやり溢れる温かい手紙を毎週書き、励ました。そんな彼の訃報の後で、下の漫画が新聞に載った。シュルツも又国を問わずに多くの人に愛され、その逝去は惜しまれた。



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