あぁ・・・このままでは終われない!脳内出血奮戦記

ひとり暮らしを突然に襲ってきた脳内出血
頭脳それなり動きは超高齢者!毎日のトレーニング記録 

あっ!出来るようになったぁ~という時は

2017-11-17 13:25:49 | 発症から退院まで
どんなに小さなことでも 出来るようになった時は
自分を誉めてあげましょうね


この言葉は、当時リハビリ病院へ転院して1ケ月が過ぎたたころだったか。
体育館のような広いPTの訓練中の事(下肢歩行)
たまたま隣り合わせになった女性の方からの言葉だったのだ。

とてもきれいなその方は、ダラダラと ヨダレがひっきりなしに流れていた・・・
タオルで顔半分みえないくらいに。

病気ってきれいな人とかそうでない人とか
かまわず襲ってくるのだな~とまだフニャフニャな脳で思った記憶がある。

どうやら同じ病棟ではなかったらしく訓練の時だけ顔を合わせていた。
それから間もなく退院していかれた。

150日間余りの入院生活でも、退院してからも
「 自分をほめてあげる 」ことの難しさを幾度も痛感した。
当たり前にできてたことが、
ある日を境にまったくできなくなってしまったのだから
無理もない・・・。

今現在でも、「こんなこともできないのか」と
動かない身体を恨めしく思うこともある(苦笑)

その度に
はッとしてこの言葉をかみしめている。
名前も知らないその方の言葉が、今でもココロに宿っている。

「 どんなに どんなに 小さなことでも 」

11月生まれのあなたへ

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そっと涙をながす時

2017-02-02 17:35:07 | 発症から退院まで
あれは・・・
急性期病院からリハビリ専門病院へ転院してまもないころだった。

脳出血の怖さなどまったく無知な自分。
Dr.の言葉に耳をかすこともなく、職場に復帰するんだっ!と思っていた。

リハビリを進めていく度に、意欲はしぼみ不安と恐怖だけが大きく膨れ上がっていった。
こんなことさえ出来なくなっているのかと思い知らされた。
筋肉の大逆襲が・・
ある時、体育館のような広いPT室でのこと。
いつもRadioが流れていた。

ベッドに横たわっているときに耳に入って来た曲に
突然ドット涙があふれてきてしまったのだ。

メロディ(funsenki)と伴奏(mikusan)をいっしょに弾いたピアノ曲だった。
もう二度とできなくなったのだと思ったら・・・。

担当のK療法士さんは、突然泣き出したことにちょっと驚いたようだった。

基本、泣き虫ではない。
人前で涙を流すなんてそれまで数回あったかどうかだろう。
メソメソなイメージはないらしい(笑)

入院中、思いっきり声をあげて泣きたいと思ったことがあったが、
ひとりきりになる時間などない。
「トイレに一人で」という許可をもらってから、一度だけトイレで声を殺して涙を流したことがある。

でも赤く腫れあがった目は、隠せないんですよね。
同病者にバレてしまった(苦笑)

男子患者さんでも大声をあげて突然泣き出す場面を目撃したことがある。
けっして感情失禁だけではないのです。

いきなり自由のきかない身体になってしまったのだから・・・。
皆その壁を乗り越えていかなくてはならない。

退院したら思いっきり泣いてやるっ!

そんな思いもいつか忘れていた。
泣いてるヒマなどないのだ(笑)

次から次へと
「 やりたいこと・やらねばならないこと 」が押し寄せてきて今に至っている。

腹をくくったころからだろうか・・・。
泣く理由が見つからない。
幸せなことだと思う。

あ、もちろん うれし涙は別物っ!!
うれし涙なら いっぱい いっぱ~い流したい!!

♬ hello my friend 曲・歌ユ~ミン
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倒れた時 頭が割れるような激しい頭痛はありませんでしたかっ?

2016-10-12 13:55:47 | 発症から退院まで
2012年2月、救急車ではこばれた急性期病院で、何度もこう聞かれた。
脳内出血は激しい頭痛が起こることが多いらしい。
ここからして多くある例とは少し違っていたようだ。

仕事は繁忙期を終えて連休中だった。
1月30日始発電車で新潟へ。親の介護の件だった。当時のビジネス手帳には新幹線+在来線の時刻表が記されている。
一泊予定だったがこの年は稀にみる豪雪の年!
電車が止まりそうな勢いで前が見えないほど雪が降り続く・・・急遽トンボ帰りとなったのだった。
一日中冷蔵庫の中にいたような気分だった。身体もココロも疲れていたかも知れない。
結局これが上越新幹線の最後の乗車となってしまった・・・。

頭痛の記憶は、ないが一度だけ大きくグラリと揺れた、フラついたのだ。
倒れる4~5時間前のこと。しばらく横になっていたら治まったのだ。
これが予兆といわれればそうかも知れない・・・。

クルクルと動けているから健康だとは限らないのだと思い知らされた。
それもまさか脳だなんて・・・。

頭痛をともなわない脳内出血もあるのです。
倒れた時・・

気温の低さに覚悟をしていたわりに西陽が射し込み28℃の室温にも大崩れなく、筋肉群も穏やかでいてくれる。
なんと言っても「 おひさま 」ですね♪~


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倒れた時に着ていた服は、いったいどこへ・・・

2016-10-11 15:42:22 | 発症から退院まで
なんの前ぶれもなく突然やってきた脳内出血っ!
自分が気がつかないだけで小さな異変はあったのだろう。

2012年の2月1日の夜7時半ころに倒れたのだが冬ということもあり、
 通常のパンツ(ズボン)の上には、
スキーで履くワシャワシャ音がして裏地があったかい生地のものも履いていた。

 普通の手ごろな価格の物だ。
上着にはフード付きの袖のないあったかいジャンパー姿だった。

 部屋はエアコン暖房がフル回転していた。
これらが助かった原因のひとつだと思っている。

お風呂大好き人間がこの日はなぜか風呂に入る予定もなかった。
 翌日の仕事は連休最終日ということもありダラ~リとしていたのだろう。

 きっと体調万全ではなかったのだ。
あの時お風呂に入っていたならば・・・と思うとゾッとする。


 ダークブラウンのジャンパーは、
フード付きなのに袖がなく
活動しやすくてとても気に入っていた。

東京おねえさまからのいただきものだった。

 救急車で運ばれてから
着ていた服がどうなったのかなんてことにまで思いはとどかず。

 10日間ほどの集中治療室でだったか覚えてないが
「肌着を切らせて、、、」と看護師さんから言われた記憶がある。

病衣だっていつ着せてもらったのか今も思い出せない。

 救急車から病院のストレッチャーに移され、
名前やら連絡先を確認されたところまでで記憶は止まっている。

 気がついた時には、
身体中から何本もの管につながれ、
目には緑色に光る波長が映っていた、
たぶん心臓系の医療機器か?

 ベッドに横たわっていた認識があるものの着衣など眼中になかった。


 以前スポーツ店でのパート勤務時でのこと。
登山用の下着がすごく良いと知ってからは登山用を愛用していた。

 それを ”切りますよ” と言われた時は
、えっ?!それちょっと高かったんだけど(お値段が・・)
仕方あるまい(笑)

登山用の衣類って・・

 退院してから季節はまた冬というころになって、
ようやくあのジャンパーは?!と気づいたのである。

 箪笥の中など3年ほど過ぎてから、
ひとつひとつ確認できるようになっていったのである。

 結局、倒れた時に身につけていた物は、
何ひとつ残っていない。
 もしかしたら返されていたのかも知れないが
手元からは、ひとつ残らず消えてしまった。

 お気に入りの服を身にまとっていたというのに、
こんなによく?!記憶にあるというのに・・・(苦笑)

 最低気温が15℃、最高気温が20℃くらいと
グンっと寒くなってきたので衣替えをしている。

と、いっても引き出しの中の手前と奥とを入れ替えることぐらいがやっと。
数えるほどの外出であるからして着るものはだいたい決まってくる(笑)

倒れる前に着ていたものなど再び手を通す時など来るのだろうか・・・。
 あ~~ぁ、お気に入りのジャンパーが・・・と、
今でも残念でならない・・・。

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♬想い出の九十九里浜 に想うっ

2016-09-06 10:15:09 | 発症から退院まで
bay fm ANNAさんのmiracle♪きのうのこと。
流れてくる曲におっ!懐っかしいなぁ~と思わずIC録音に走る。気持はハシル!
あす発売のLa Pomponというグループだそうである。

1991年Mi-Keというグループが唄っていた曲。
当時は曲と題名とMi-Keという名前を知ってただけである。
今回初めてメンバーを知ったほど。
なぜかこの曲がとっても印象にあった。まず曲!次に歌手、次に歌詞な人間(笑)
このころ家業の(オーディオ系)手伝いを始めたころでもあったからというのもある。
それと もうひとつ・・・

2012年2月、急性期病院からリハビリ病院へ転院してから迎えた5月のこと。
出世部屋といわれるナースセンターから離れた病室に移動になった。
4人部屋をたったひとりで過ごすことになったゴールデンウイークのある日。
若くてとてもキレイなKさんが転院してこられた。帽子を脱いで挨拶を・・・と
一瞬ハッと息を飲んでしまったのだ。といってもこちらの反応はずいぶん遅いわけだが(苦笑)

マルコメさんだったのである。頭の形も顔だちも誰がみてもキレイな人。
どうやら事故で頭の手術をしたようだった。身体の動きを見るにまったく普通に見えるのである。
同病者が常に周りにいらしたから「普通に立って歩いている」ということがとても不思議に感じてしまっていた自分。
同じ患者同士なのにどうして?
と、すっかり車イスと動かない身体がフ・ツ・ウなのだと勘違いしてしまう怖ろしさ(苦笑)

事故で一瞬にして仕事も生活も一変してしまったのだから。脳卒中も事故みたいなものである・・・。
それにしてもKさんは若い(当時30代前半かな)これからの夢や希望、目標があっただろうに。
頭の中は目には見えないからとおっしゃっていた。辛く苦しい葛藤がひしひしと感じられた・・・。
55歳の誕生日まもなく倒れてしまった、なかなか現実を認められなかった自分。
Kさんのことを思ったらなにやってるんだ!自分!と喝をいれたものである。
当時 仕事を切り盛りされていたというNさん。
「70まで元気にやってきたのだからもうしょうがないっとあきらめもつくが若い人にはほんとに気の毒だ」と
励ましてくださったことを思い出す。

Kさんとは1ケ月ほどごいっしょした。退院が急に決まったと置き手紙をのこしてくれたのだ、自分の外泊中のことだった。
たしか九十九里方面出身と記憶している。
会えるならばぜひもう一度お会いしたいおひとりである。
若ければ若いほど衝撃が大きい でも乗り越えるパワーも絶大である~

  ♬ 想い出の九十九里浜 作詞・長戸大幸 作曲編曲・織田哲郎

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片手、片足で 車イスを初めて 漕いだ時のこと

2015-12-16 18:24:59 | 発症から退院まで
大病院からリハビリ専門病院へ転院したその日から

車イスで食堂への移動が始まった。
車イスを押したことはあっても利用者になるのは初めてであった。

 どうやったら車イスが動くのかさえ分らない。

 乗ってるってだけでも必死な状態なのに・・。

 看護師さんから押してもらったり、
動かす方法を教えていただいていた。

 みなさん 片手、片足で前進、後進、
方向転換をやっていらっしゃるのを
 ジッ~と見つめながら試みるがなかなかうまくいかない。

 新参者の最初の壁(笑)
もちろんこれもリハビリの・ひ・と・つ。

この病院、食堂は車イス利用者が。車イス卒業が近づくと病室食となる。
 そりゃ必死になる。
ごはんにありつけなくなるわけだから(笑)

みな四苦八苦するも自然といつの間にやら名ドライバーになっていく(笑)
必死で動かそうとしている方を見かけると「あぁ 新しく来られた方だな」と。

この季節としては、めずらしく気温が高い日(18℃)。
これを逃すもんかっ!と横断歩行訓練を同行してもらう。

ふとお見かけした電動車イスのお若い方(30代半?!)
ヨタヨタ歩きのこの身体には、キケンがいっぱい。

 高速道路を40km速度でノロノロ走ってるようなもんだ。

 近寄るな!
近づいちゃダメだぞっ!と脳に言い聞かす(苦笑)

 明らかに脳卒中ではない方。
勢いよくシャァ~と通り過ぎていった姿で
 フッと思いだした一日であった♪~

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男子看護師さんに初めて担当してもらった時のことっ!part 2

2015-12-06 10:16:19 | 発症から退院まで
大きな病院からリハビリ専門病院へと転院すると男子看護師さんの数が増えてるっ(笑)
仕事がら髪は後ろで束ねてシニオンにしていたのだった。
本格的にリハビリが始まると髪もキリリっと?!
朝食後に結んでもらうのが日課になった。
忙しい朝の時間帯というのに・・・。

男子看護師さんから髪を結ぶんでもらう時がやってくるのにそう時間はかからなかった。
「あの男子看護師さん、娘さんの髪を結んでて慣れてますから安心してくださいね 」と。

そうですよね・・・わがまま言ってられないわっ。
看護師さんは仕事なのだから!と
自分に言い聞かせていた。
担当の男子看護師さんには、すぐに慣れることができた。
オオ看護師さんありがとうございました。

退院のころようやくショートカットにできたのだった。

ベッドお向かいのMさん(当時86歳)もやはり抵抗があったように感じた。
骨折で入院されていたのだが、夜間のおトイレ介助があったのだ。

年齢よりもはるかにしっかりされてて、物知りで品がありチャーミングな方。
大正生まれの方にとっては、より衝撃は大きかったのだろうと推測する。

「髪を結べるようになるっ」目標のひとつである。
現在はやっと肩の位置まで腕が上がる程度。
ショートにしてしまった髪。髪飾りは出番をいつか、いつかと待ち構えている♪

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男子看護師さんに初めて担当してもらった時のことっ!part 1

2015-12-05 18:08:24 | 発症から退院まで
2012年2月 救急車で運ばれ、I C U(集中治療室)に10泊ほど。
身体から何本もの管に繋がれていた。夜が長くて、長くていつも朝を持ち焦がれていた。
ベッド上の生活から一般病棟へ移るとすぐにリハビリが始まり、
おかゆ→ごはん へと普通食となる。
こうなるとトイレ事情がかかわってきますよね!
紙パンツを利用していたが、そうそう出来るものではない。

それまで女子看護師さんが担当してくださっていたので、
男子看護師さんの存在に気がついたっ!

看護の世界に男子もというのは耳にしていた、

担当してもらうのは初めてのことっ(アセルッ)

ある時、トイレ介助に男子看護師さんが来てくださったのだ。
覚悟はしていたけど・・・。
左片麻痺の身体であるから介助は避けられられないわけで、
車イスで向かうも落ち着かない、でるものも出なくなりそう(苦笑)

フニャフニャの脳でも意識する余裕は片隅にあったのだ(笑)
用が済めば、ボタンで呼ぶのであるが なかなかボタンが押せない自分。

なんとか自分でパンツを上げられないものかっ!と四苦八苦、
だが、何ができるわけでないコノ身体。
この時の男子看護師さんの顔は覚えていない。
それもそのはず 顔を見ないようにしていたのだから
たぶん・・・イケメンな気配は感じていたと思う(笑)


トイレを気にするようになるとだんだん食が細くなっていく・・・。
無意識にトイレを遠ざけるのだ。

なんとかしてトイレに行けるようになるぞッ!とこの時から
強く強~~く!思うようになっていったのである。
「 ひとりでトイレへ 」のお許しがでたのは、それから2ケ月後にようやくのことだった。

最近、かかりつけ医で大腸検査のため採便のチャンスがやってきたのである。
二日間採便を自宅でやりながら 自分でできることの喜びをかみしめながら
フっと思い出した♪~

お願いがあります!ごはん食に変えて・・

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退院した 記念の日

2015-07-09 13:14:12 | 発症から退院まで
きょうを乗り越えれば!と
いつもより丁寧に筋肉群のゴキゲンうかがいをしている。

 明日から2~3日、
太陽が顔を見せてくれるらしい(待ってたぜっ)

 2012年 2月
思ってもみない脳内出血に倒れてから急性期病院 → リハビリ病院と
 入院生活も終盤に突入したころ。

 そう 6ケ月の壁ですね。
 発症から6ケ月間のみが回復期と呼ばれるあの事です。

「 ほんとに、ひとりで暮らすのですか? 」と何度も聞かれた。
 この身体でひとり暮らしはかなり難しかったようだ。 

 しかし他に選択肢などありはしない!

 「 食べる 出す 眠る 」まずコレができてないと!!

決心が揺るがないことを確認してもらってからは
「 解りました!では ひとり暮らしに向けてやりましょう! 」という言葉に
どんなに勇気づけられただろうか。

当時 車イスは 離すもんかぁ ってくらい絶対だった。
 ベッドに横付けされていないと不安で不安でしょうがない。

コノ気持ちの切り換えが真っ先にやるべきことだと思った。
自宅に戻るにはまず車イスからの卒業だ!

・ トイレに入る20㎝ほどの段差の克服。
・ 玄関の鍵開け。

少なくとも3メートルくらいは歩けるようにならなければ。
自分の部屋に帰るんだっ!!!
もうこの思いだけでリハビリを頑張れた。

そう コノ部屋、この空間がとっても居心地がよいのだ。
大好きなエリアだからこそ
現在もこうして自主トレを続けてこれてるのだと思う。

自宅に戻れるうれしさと同じくらいの不安を抱えていたが
あの「 退院までには必ず歩けるようにしますからね 」という言葉が
 今も昨日のことのように思い出される。


 手のかかる患者であったと思う(苦笑)
Ym氏ありがとうございます。

いろいろな方々との出会いと別れがあった入院生活。
5ケ月間にも及ぶ入院生活はそれまでで初めての経験だった。

 七夕さまの飾りをバックに病棟で記念の1枚、
どこから見ても病人そのものだ(ショック)

こうして2月からの激動の人生は、まずひとくぎりしたのだった。
 と同時に
次なる激動への始まりでもあった。
         温室からの出発♪~ 

 
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これが 教授回診なのね!

2015-07-04 20:32:51 | 発症から退院まで
2012年 2月 救急車で運ばれ そのまま集中治療室に10日間あまり滞在の後、一般病棟へ。
身体から何本もの管で繋がれていたものがスッキリとなった。
首がすわらず カックン カックン。
腰もすわらない状態の身体を看護していただいていた。

会話は出来ていたと思うし、看護師さんの顔と名前も覚えてたし。
この時点では もう二度と職場で仕事ができなくなっていた身体とは本人思ってもいない。
ましては命にかかわっていたことなど夢にも思わず。

ただただ肩が激痛に襲われていて夜も眠れない!ってことが辛かった。
すぐにリハビリが始まった。
立つことも出来なくなっている身体に これはただごとではない!!
と、フニャ フニャの脳でも理解していた。

久しぶりに口にするのは おかゆ。
左片麻痺って お腹は?
内臓はちゃんと動いてくれるんだろうか?
なかなか腸が活動してくれなくて 薬をという話もでたが、
薬は、かなり苦手な人間なのだ。
ギリギリまで自然現象が起きるまで待ったのである。
それからまもなく腸が活動してくれて安堵っ。
すると食欲が出てきた。

肩の痛みで夜も眠れずでリハビリへ行くものだからそれなりな訳で・・・。
何度か看護師さんに おかゆ → ごはん にとお願いしていたのだが・・・。
くすりって苦手・・

そんなある日、 病室に白衣姿の面々がぞろぞろとやってきたのだ。
テレビドラマでしか見たことないが あっ!これって教授回診だっ!と。

ひとりひとり患者さんの前で病状を説明していた(らしい・・)
で、自分の番が来たのである。
食事のことがいつも頭の中にあった自分。
「 お願いがあります!おかゆをごはんに変えてください!
おかゆじゃ力なんか出やしない!リハビリもできないんですっ! 」と直訴(苦笑)

その日の夕食から 待望の ごはん食 となりました(笑)
こんなときでも 食に執着 いや こんな時だからこそか♪~


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