日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

松江城(2)

2013-07-26 | 
天守閣へと向かいます。





松江神社







暑い中、ご苦労様です(笑)

ちなみにこの方と、次の日にも他のところで出くわしました!















城の中の展示物







天守閣からの眺めです。

松江市街



宍道湖



松江城の石垣について







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松江城(1)

2013-07-24 | 
松平直政公の銅像から歩くとすぐに松江城のお堀が見えてきました。





松江城保存につくした人たち

明治4年(1871)4月、松江城の廃城が決まり、明治8年(1875)に利用できる釘やかすがいなど金物が目的の入札が始まりました。木材は燃やし、石材は壊されるしかありませんせんでした。
この危機を救ったのが、元松江藩士 高城権八と出雲郡出東村(現 斐川町坂田)の豪農 勝部 本右衛門(かつべ もとうえもん)家の人たちでした。
高城は銅山方役人、勝部家は当時、銅山経営を行っていたので、本右衛門栄忠(しげただ)と息子の景浜(かげはま)は、高城権八と公私にわたり、親しい間柄でした。その時、松江城を管理していたのは、陸軍広島鎮台でした。入札で松江に来ていた責任者の斉藤大尉と会い、「入札額と同金額を納めるから、せめて天守閣だけでも残してほしい」と懇願しました。天守閣の入札額は、180円だったと伝えています。
こうして高城と本右衛門の努力で松江城天守閣は残り、全国に現存する十二天守の一つとして、今も戦国の威風を漂わせて、松江の町を守っています。



史跡松江城二の丸下の段の遺構  

 この二の丸下の段一帯は、江戸時代に米蔵や屋敷などのあったところである。
 米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていたが、洪水や飢饉がしばしば発生するようになったので米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようになった。
 城郭図によれば、築城時(17世紀)にはL字型に建つ二棟の米蔵と門や塀が存するだけであった。  延宝七年(1679)には、越後騒動により配流された高田藩の忠臣荻田本繁(主馬)とそのこ民部、久米之助のためにこの地の一角に「荻田配所」が建造された。
 さらに十八世紀以降になると「荻田稲荷社」をはじめ米蔵が新たに五棟も新造されたが、この内三棟は天保年間に建てられたものである。やがて明治維新となり不要となった建造物群は明治八年に至り天守閣を除いてことごとく取り壊されてしまった。その後、一帯は運動場となり明治三十三年には島根一中と鳥取中により両県初の野球試合が行われたり、諸種の建物、施設も出来て文化やスポーツの場にも使われたりした。
 松江市では、昭和四十七年度から三次にわたり米蔵を中心に発掘調査を実施した結果、今見るような石積基壇の遺構が発見され、ほぼ縄張図や城郭図どおりの規模であったことが確認された。(松江市教育委員会)















天守閣へと向かいます。

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松平直政公像

2013-07-14 | 銅像
松江しんじ湖温泉からバスに乗り、県庁前で降りると、県庁広場に松江藩の初代藩主・松平直政公像の像があります。



松平直政公像
 松江藩主は、堀尾三代、京極一代、松平十代である。松平家初代の直政公は、富国・安民・質素・節財等の大綱を示し、藩政の基礎を固めた。
慶長19年(1614)大坂冬の陣に際し、母 月照院は、14歳で初陣する直政に対し「君は徳川家康の孫で、父 結城秀康は名将である。父に劣らぬ奮戦をせよ」と励まし、馬印(隊旗)を縫って与える。越前隊と加賀隊が先を争って真田丸に進むが、弓銃が激しく撤退する。その時、一将が進み出る。見れば直政である。従士の天方通総(あまかたみちふさ)は馬を止め矢表に立ち「大将が先がけるとは何事ぞ」と諌めるが直政は更に進む。通総は再び矢表に立ち塞がる。何度も矢表を争う主従を見た城将 真田幸村は、直政の勇気と従士の忠義を賞し、弓銃を撃たせず、主従の武士道の誠を讃え、櫓より軍扇を投げ与える。
この美談徳目は、時代を超えて輝き、郷土の先人は感嘆し銅像建立へと進んだ。明治2年に米原雲海作の直政公初陣像が松江城本丸に建立される。昭和18年戦時により供出される。
その後、再建の機運が高まり昭和52年、松平直政公銅像再建委員会が設置され、平成20年、同建設委員会が設置される。銅像製作は、二科会理事の倉澤實氏による。

平成21年11月吉日 松江開府400年祭・市制施行120周年事業

松平直政公銅像建設委員会・松江市

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出雲の阿国(2)阿国寺 連歌庵

2013-07-09 | 史跡
出雲の阿国の墓から数分行ったところに、阿国寺「連歌庵」があります。







阿国のレリーフ





阿国寺“連歌庵”

歌舞伎の始祖として一世を風靡した出雲阿国は、晩年は大社に帰り、尼となり、連歌を楽しんで余生を過ごしたと言われ、そのため、この草庵は“阿国寺”連歌庵”と呼ばれるようになりました。
連歌庵はもともと中村町にありましたが、中村の大火で消失してしまい、後世になって養命寺の下に再建されましたが、その後、三光国師をおまつりするため、ここに移築されました。

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出雲の阿国(1)出雲阿国の墓

2013-07-04 | 史跡
出雲大社前のバス停から西に徒歩5分ほど行ったところに、出雲阿国の墓があります。

慶長8年(1603年)春に北野天満宮に舞台をかけて興行。

同年5月には御所でも「かぶき踊り」を演じ、四条河原などで勧進興行を行い、京都で大変な人気を集めました。

阿国の生涯は謎につつまれていると言いますが、出雲大社の巫女で、本殿修復費用の勧進のためシ諸国を旅していたという説があります。







出雲阿国の墓

日本を代表する芸能・歌舞伎の始祖として知られている出雲阿国は、大社町の鍛冶職中村三右衛門の子で、出雲大社の巫女であったと伝えられています。
天正の頃、出雲大社本殿の修復勧請のため京都へ上り、世にいう歌舞伎踊りを創始しました。
豊臣秀吉や徳川家康の御前でも、この歌舞伎踊りを披露するほどに名をあげ、世に「天下一阿国」として知られました。
また、阿国と名護屋山三との熱愛ぶりも今の世に語り継がれています。


芸能、演劇関係者の参拝者が多く参拝に来るそうです。

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