日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

泉岳寺(6)大石主税の墓

2022-01-30 | 仏閣

続いて、大石主税の墓です。

大石主税(大石 良金 おおいし よしかね)
幼名は松之丞(まつのじょう)、通称は主税(ちから)。父は大石良雄。母はりく。
元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩筆頭家老大石良雄の嫡男として赤穂に誕生。幼いころには疱瘡を患ったという。
元禄14年(1701年)3月14日(4月21日)、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩が即日切腹、赤穂藩が改易となった時、良金は数え年で14歳であり、元服前だった。
赤穂城を幕府の収城使脇坂安照に引き渡した後、良金の父の良雄は遠林寺において藩政残務処理にあたったが、この間の、5月11日(6月16日)、良金は生母りくや弟吉之進、妹くうとるりの四人を連れてりくの実家但馬豊岡藩家老石束毎公の屋敷へ向かった。この豊岡滞在中に良金は毎公より脇差を与えられた。
その後、7月に良雄が京都山科へ移り住むと、りくや良金たちも山科へ移る。このとき良雄は浪人となった旧赤穂藩士たちから誓紙血判状を受けて、浅野家御家再興運動に尽力中であった。良金は、12月に元服して義盟に加わった。翌元禄15年(1702年)4月、良雄は妻りくを離別して幼い子どもたちとともに再び実家の豊岡へ帰したが、良金は山科に残り父と行動を共にする。
7月、浅野長矩の弟浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となると、良雄は円山会議において吉良義央への仇討ち一本に決定。9月19日(11月8日)、良金は良雄に先立って江戸に下り、垣見左内と名乗って江戸では日本橋石町三丁目(現東京都中央区日本橋本町)の宿屋小山屋弥兵衛店に滞在。続いて下向してきた大石良雄もここに入った。
12月15日未明。47名の赤穂浪士は吉良義央の屋敷へ討ち入り、良金は裏門隊の大将を務めた。激闘の末に浪士たちは吉良を討ち果たして、本懐を果たした。赤穂浪士一行は泉岳寺へ引き上げ浅野長矩の墓前に吉良義央の首級を供え仇討ちを報告した。
幕府は赤穂浪士を四大名家にお預けとし、良金は堀部武庸、大高忠雄ら9名と共に松平定直(久松松平家・伊予松山藩)屋敷へ預けられた。翌元禄16年(1703年)2月4日、公儀により赤穂浪士へ切腹が命じられ、良金は同家お預けの10人のうち最初に切腹を仰せ付かった。松平家家臣波賀朝栄の介錯で切腹。享年16。最年少の浪士だった。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。(Wikipediaより)

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泉岳寺(5)大石内蔵助の墓

2022-01-18 | 仏閣

泉岳寺大石内蔵助(良雄)の墓


「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られています。





没年:元禄16.2.4(1703.3.20)
生年:万治2(1659)
江戸時代中期の赤穂事件の浪士47人の中心的指導者。名は正しくは「よしたか」。幼名は喜内。通称は内蔵助播磨国(兵庫県)赤穂藩の重臣の家に生まれ,父権内良昭の死後,祖父内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして家老職となった。石高1500石。山鹿素行に軍学を,京の伊藤仁斎に漢学を学んだといわれるが,そのまま何もなければ,平凡な一家老で生涯を終わっていよう。史上に名を遺すこととなったのは,赤穂事件のためである。 赤穂事件のうちの第1の事件は元禄14(1701)年の勅使下向の接待役を,藩主浅野内匠頭長矩が勤めたときに起こった。3月14日,長矩が,高家筆頭吉良上野介義央を,遺恨ありとして殿中で負傷させた刃傷事件である。長矩はただちに田村右京太夫建顕の邸に預けられ,即日,切腹・断絶・城地没収が,将軍徳川綱吉の意向として決定した。一方,義央には何の咎めもなかった。 事件の報が赤穂に伝えられたのは3月19日。良雄以下の家臣は,城中に集まり,開城か,切腹か,抵抗かをめぐって論議。300人の家臣団が,残る者,去る者,それぞれの生き方を示した。良雄は家中をまとめ,また藩札・藩の借金などの処置にも努め,4月19日に城を無事に受城使脇坂淡路守安照らに引き渡した。5月21日には万事の処置を終わり,6月25日の長矩の百カ日法要を花岳寺で行うと,山城(京都府)の山科に移った。 ここから事件は仇討ちに移る。良雄は,主君の恥辱をそそぐことと,長矩の弟長広による浅野家の再興,それがかなわなかったときに義央を討つことを考えていたようであるが,世評は江戸・上方とも浪人となった旧赤穂藩士たちに同情の声が多かった。11月良雄は江戸に入り約1カ月滞在。この間,8月に義央は屋敷替えの願いを聞きとどけられて,呉服橋の邸から両国の川向うの本所一ツ目に移転,12月には孫(養子)の上杉義周が吉良の家督を相続した。赤穂の浪士の中には脱落する者も出て,良雄も長男主税をのこして妻子と離縁,伏見・島原などで遊ぶ。15年7月,長広の浅野本家預けが決まり,お家再興の望みは消えた。同月,良雄は京都円山に同志を集め,「吉良邸討入り」の意志を確認。江戸に集結した浪士47人が「討入り」を決行したのは,同年12月14~15日。義央の首級をあげ,泉岳寺の長矩の墓前に供えた。討入った浪士たちは,幕府により細川・久松・毛利・水野の4家に分れて預けられ,翌16年2月4日に切腹。遺骸は長矩の墓のそばに葬られた。この結果,事件の発端となった長矩の未熟さは追求されることなく,同情をさえ引くこととなり,浪士たちは「義士」とたたえられた。近松門左衛門の「碁盤太平記」,竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」など浄瑠璃や歌舞伎に劇化され,あらゆる芸能によって,国民的関心といってよいほどの評判を得ている。そしてこの事件全体も「忠臣蔵」といわれるようになった。(コトバンクより)

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泉岳寺(4)浅野内匠頭の墓

2022-01-06 | 仏閣

続いて、浅野内匠頭のお墓です。

冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士の戒名が読み取れます。

浅野長矩
あさのながのり
(1667―1701)

播磨(はりま)赤穂(あこう)城主、5万3500石。広島浅野家の分家。妻は浅野長治(ながはる)の長女(瑤泉院(ようぜいいん))。1645年(正保2)浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)(茨城県)笠間(かさま)から赤穂に転封となり加里屋(かりや)城を築いたが、長矩はその孫で1675年(延宝3)に父長友(ながとも)の跡を継いだ。1680年、従(じゅ)五位下内匠頭(たくみのかみ)。1701年(元禄14)幕府から勅使の御馳走(ごちそう)役を命ぜられたが、その指南(しなん)役である高家肝煎(こうけきもいり)の吉良義央(きらよしなか)との間柄が悪化した様子で、3月14日幕府の年賀の答礼として京都から派遣された勅使・院使が到着する直前に、江戸城本丸の松之廊下で「私の遺恨」から吉良に斬(き)りつけたが、軽傷を与えただけで捕らえられ、ただちに切腹させられ領地は没収された。

 
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