日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

焼津市の徳川家康ゆかりの地(5)家康が戦勝祈願した旗掛石

2024-05-31 | 徳川家康

静岡県焼津市の石脇浅間神社前に、注連縄をしてある大きな石が二つあります。

徳川家康が、この石に旗を立てたことから、旗掛石と呼ばれています。(家康の時代より、もっと昔から有名であったとも)

石脇の原川新三郎は、天正9年(1581)の頃から家康に従って親交を深めたとされ、天正10年(1582)、家康が武田軍のいる花沢城や田中城を攻めた際、新三郎の家を本陣とし、この旗掛石の神に戦勝を祈願しました。

二年後の戦いでは、家康は新三郎に対して、村の15歳から60歳までの男子一人残らず集めるように命じ、集まった人は千人ほどだったといいます。

その後、天下を統一した家康は、二代将軍に職を譲り、駿府に住みました。

そして、しばしば原川家を訪れ、原川家の門前の大きな石に旗を立てて、その力を示したといいます。

また、家康が馬を繋いでおいた松は「駒つなぎの松」と呼ばれています。

江戸時代には、原川家の屋敷の一方に堀の跡があり、外門から中門を通って家の裏までは五百メートルもあったということからも、かなり大きな敷地を持っていたのでしょう。浅間神社も原川家の屋敷地の一角だったのではないかと考えられています。

石脇浅間神社本殿

旗掛石の脇の小山に祀られたこの神社は、原川家が故郷の遠州原川村(現・掛川市)から勧請したもので、元々は屋敷神でした。
これを石脇の人たちが村の守り神として一緒にお祀りしたいということになり、地域の神社になったそうです。

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焼津市の徳川家康ゆかりの地(4)罪切地蔵尊

2024-05-21 | 徳川家康

焼津駅から徒歩5分ほどのところに、徳川家康の伝説が残る罪切地蔵尊があります。

武田軍との合戦で敗走中の家康が焼津北村(現・栄町)の僧に救われ、後に駿府に隠居して鷹狩りを行った際、草庵に立ち寄り、かつての御礼として名剣を授けるとともに阿弥陀寺を建立しました。その地に現在建っているのが罪切地蔵尊で、罪を断ち切り幸運を招くという御利益があるとして、今でも人々の信仰を集めています。

毎月24日にの午前8時から午後3時まで縁日が開かれ、9月23日には例大祭「ごりやく祭り」が行われます。

天正9年(1581年)徳川家康が、当地で武田勢と一戦を交え敗走し、当地焼津北村の草庵僧に救われた。その後、家康は天下を制定し、3年後に駿府へ居を構えた。
 家康はたびたび高草山で鷹狩りをした際、その一命を救ってくれた草庵に立ち寄り、報恩を以って名剣を授け「帰命山 阿弥陀寺」を建立。
  その後宗禅和尚は、当寺に伝わる名剣は秘宝であるが、仏道において人を切る刀を所持するは仏の道にあらずとし、経文と共に石棺に納め現在地に埋め、辻堂を建て国家安寧、罪障消滅、家内安全の大法要を営んだ。
 これが現在に至り、由緒深い徳川家康ゆかりの罪切地蔵尊であり有難き経文のご利益に依って、衆生諸人の前世の因縁罪業を一切、このお地蔵尊が切ってくれるということで「罪切地蔵尊」と言われるようになったのである。

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焼津市の徳川家康ゆかりの地(3)海蔵寺

2024-05-11 | 徳川家康

教念寺から海蔵寺へ。

海蔵寺は創建当時は「宝城山安養寺」と言う天台宗の霊場でした。

海蔵寺八世呑龍上人の記した「金玉院海蔵寺地蔵尊縁起」によると、後白河天皇の勅願所であり、平安時代末期には国家安康を祈るための、国から指定された祈祷寺院だったそうです。

嘉元三年(1305年)、時宗を開いた一遍上人の弟子である二祖の真教上人に感化された安養寺の観海律師は、真教上人の弟子となり、天台宗だった安養寺を時宗に改宗しました。



小川のお地蔵さん」とも呼ばれ、水難除けのお地蔵さんとしても親しまれてきました。

明応九年(1500年)、夏のことです。
城之腰村の漁師、吉平さんが網を引きあげようとすると、1メートルほどもある木のお地蔵さんが網にかかっていました。
びっくりした吉平さんは、急いで引きあげると、小さな仮のお堂を建てて、お地蔵さんをおまつりしました。

しばらくして村人の夢の中にお地蔵さんがあらわれて、
「私と縁がある安養寺に移してくれたなら、おまえたちを守ってやろう、願い事も叶えてやろう」
と言いました。

 村人たちはこれを聞き、そのお地蔵さんを安養寺に運びました。
その後安養寺は、海からあがったお地蔵さんをおまつりしているので、海蔵寺と呼ばれるようになったのです。

この地方は、その昔、大雨のたびに大井川が氾濫し、田畑は大変な被害を受けていました。
そこでお地蔵さんに、なんとか大井川の氾濫を止めてほしいとお願いしました。

その為、このお地蔵さんは川除地蔵尊とも呼ばれています。(海蔵寺HPより)

 

徳川家康が鷹狩りの際に立ち寄ったのが縁で、家康や十男の徳川頼宣(駿府城主・紀州徳川家初代)から厚い信仰を受け、徳川家ゆかりの資料が多く残されているそうです。


徳川頼宣

小泉八雲の作品「漂流」にも海蔵寺が登場することから、こちらにも小泉八雲ゆかりの地の案内板があります。



1859(安政6)年、焼津港から讃岐へ向かう途中遭難した福寿丸で、ただ一人助かった天野甚助は一枚の板子にすがって2日2晩泳ぎ続けたといいます。甚助はその板子をいつもお助けを祈っている小川のお地蔵さま(海蔵寺)に奉納しました。八雲は焼津で天野甚助老人からこの体験談を聞き、「漂流」(『日本雑記』に所収)という作品を書き残しました。(焼津市HPより)


この板子は、現在は焼津小泉八雲記念館に展示してあるとのこと。

 

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焼津市の徳川家康ゆかりの地(2)教念寺

2024-05-01 | 織田信長

焼津神社から教念寺へ。



こちらにも小泉八雲が散歩でよく訪れたそうで、「小泉八雲ゆかりの地」の案内板がありました。

母(二十八代忍晃の妻)が嫁にきて間もなくの頃、裏の畑で仕事をしている処へ乙吉が垣根越しに面を出して、「おばさん、八雲先生が来たので、泉水(池)の鯉を見せてくりよや」といった。
「ああええともサ」と返事すると、乙吉のほうがむしろ背の高い、目の大きい外人さんが入って来てニコニコ笑って頭を下げた。
そして、池の鯉を見たり、本堂の屋根から上に枝を覗かせている大松を眺めて「大変いい景色」と何度もほめていた。母が渋茶を汲んで出すと喜んですする様に飲んだ。茶碗を持つ手も型にはまっていて、この外人さんはきっと偉い人に違いないと思った。
(北山宏明著『小泉八雲と焼津』より)

江戸時代、徳川家康拝領の品が伝わっているそうです。

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