日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

近江鉄道サイクルトレインの旅(12) 鳥居本宿

2018-08-28 | 建築物
五個荘から鳥居本
 
 
 
近江鉄道鳥居本駅は、レトロ感漂うお洒落な洋館駅舎。
 
 
 
かつては駅構内に日本石油米原油槽所があり、構内に小規模の荷役線が敷かれていた。当駅から彦根駅を経由して安治川口駅までタンク車による石油輸送が行われており、当駅 - 彦根駅間が近江鉄道で最後まで残った貨物列車運行区間であったが、油槽所閉鎖に伴い1988年に廃止され近江鉄道の貨物輸送は幕を閉じた。 (Wikipediaより)
 
 
 
駅舎は、国の登録有形文化財に登録、第4回「近畿の駅百選」に選ばれています。
 
彦根には2つの中山道宿場街「鳥居本宿」「高宮宿」がありました。
 
鳥居本は、江戸から数えて中山道六十七次の第六十三にあたる旧宿場町です。現在は滋賀県彦根市鳥居本町。
 
本陣は寺村家が務め、脇本陣と問屋は高橋家が務めました。
 
本陣寺村家は合計201帖もある広い屋敷であった。
文政12年(1829年)から天保12年(1841年)までの『寺村家大福帳』によると、本陣宿泊客の状況は、13年間に161回3,594名が宿泊している。1年間の利用回数にばらつきがあるが、平均で年間利用回数12.4回、1回の平均利用者数22.3名であった。また1回の利用者数の最多は80名、最小は2名で、実際は50 - 60名がその収容限度であった。参勤交代の大名の供揃のように200 - 300名に達すると、全員を本陣に収容することはできず、多い時には156軒の下宿が必要になった。
また、天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、鳥居本宿の長さは小野村境から下矢倉村まで13町(約1.4 km)、宿高115石、鳥居本宿の宿内家数は293軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒、旅籠35軒で宿内人口は1,448人であった。
鳥居本宿は、安芸廣島藩・筑前久留米藩・紀伊和歌山藩・阿波徳島藩・出雲松江藩・長門萩藩・美作津山藩・伊予松山藩などが利用しており、下宿を利用する大通行が年間数回ずつあった。 (Wikipediaより)
 
では、自転車を走らせてみましょう。
 
 
何やら賑やかな雰囲気が・・・・
 

ちょうどこの日は「とりいもと宿場まつり」が開催されていました。
 
 
 
 これはラッキー!
 
早速、三成さまも登場です!
 
 

近江鉄道サイクルトレインについてはこちらをご覧ください。
http://www.ohmitetudo.co.jp/railway/cycle/index.html/

 
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近江鉄道サイクルトレインの旅(11)海老塚の跡

2018-08-17 | 史跡


近江商人屋敷の近くに「海老塚の跡」という史跡を見つけました。



海老塚(天神塚・手鬢塚)の跡
 ここは、金堂と竜田との村境にあたり、海老塚という塚があった。海老塚は別名、天神塚・手鬢塚ともいった。
 「昔、金堂の産土神を勧請した時、ここで休んだから、塚の名になった」という伝承がある。貞享二年(一六八五)の「祭礼古例之式」(『神祭用記録』)に、祭礼が終わったあと、金堂の安福寺前で七里の神輿がまず別れ、そのあと「天神塚と申所にて位田村神輿、三ヶ村神輿暇乞致し下向仕候」と記されているので、村の境にあるこの塚は、古くは天神塚と呼んでいたようである。
 手鬢塚の言われは、弘化五年(一八四八)の「初午祭り」に起きた金堂と川並の騒動にちなむようである。近世には、金堂・川並・位田(竜田)・七里・東之庄(北町屋・市田(竜田)・石川)の村々は、「山之前五ヶ村」として合同で祭礼を行なっていた。『永代記録帳』(金堂文書)には、初午祭りは、金堂の大城神社で行われる祭りであるが、川並からの高張挑灯(提灯)に「川並村八幡宮」と書かれていたことに騒動の端を発し、その挑灯が、どこからか現れた「十歳斗りの童子」に奪い去られたために騒ぎが大きくなった。この騒ぎのいざこざで、鬢の毛を抜かれたり、手を抜かれたりしたため、それらを集めて、宮地より一丁脇に塚を搗き、この塚を手鬢塚と呼んだと書かれている。記述は、いささか大げさで、浄瑠璃の一節を引用するなど脚色もあるようであるが、京大坂から、江戸、長崎までも聞こえたとも書かれ、相当の騒ぎであったことは間違いなく、この騒動を機に天神塚の「てんじん」を「てびん(手鬢)」ともじったものかと考えられる。
 海老塚と呼ばれる経緯は、「てびん」が「えび」に訛ったものか、この辺りの古名が、「海老田」であったことにちなむものか、わからない。また、塚の中央に大きな古松があり、一本松の愛称でも呼ばれてきた。現在の松は三代目である。
 今は、周りの景観も変わり、昔の言伝えも忘れられがちであるが、この松は、天神塚、手鬢塚、海老塚などの故事をしのぶよすがとなっている。
  平成二十三年三月               東近江市教育委員会



近江鉄道サイクルトレインについてはこちらをご覧ください。
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近江鉄道サイクルトレインの旅(10)大城神社

2018-08-10 | 神社

大城神社の創建は推古天皇29年(621)、聖徳太子が小野妹子に命じて金堂寺を開いた際、鎮守社として勧請されたのが始まりとされます。

  
嘉慶2年(1170)に現在地に遷座し、高皇産霊神、伊邪那岐命、出雲路幸神、天児屋根命、天満宮、武内宿弥大臣を勧請合祀し、五個荘の産土神と仰ぎました。 
 
 
 
 
文亀3年(1503)には当時の地頭・那須興市が金堂寺を改修した際家運長久を祈願し、近江の守護職・佐々木氏の居城観音寺城の鬼門に位置していたため、守護神として崇敬庇護されました。
 
 
 
 
 
佐々木氏が織田信長により滅ぼされた後、大城神社も一旦衰退しましたが、江戸時代になり、領主・柳澤氏より庇護されました。
 
もとは大宮神社、天満宮と称していましたが、明治36年改称、同14年、郷社に列せられました。
 

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