日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

鎌倉の薬王寺(2)鐘楼~観音堂

2023-12-23 | 仏閣

では、薬王寺の境内を散策してみましょう。

鐘楼

祈珠之塚叶水(かのうすい)

さしのべさんは、この祈珠之塚の後ろ側にあるのですが、写っていませんでした(:_;)

さしのべさん(本名 毒消し薬王菩薩)

長くさしのべた右手・・・苦悩する人々を抱きしめ救済しようとされるお姿
つま先を立てた左足・・・すぐにでも傍に駆けつけ寄り添おうとされるお姿
お姿の通り薬壷を持たれるさしのべさんは、皆様の悩みや苦しみを引き受けて
下さる菩薩様です。

縁起
徳川家・蒲生家とゆかりの深かった当山は元禄時代、三代将軍徳川家光公の弟、駿河大納言
徳川忠長公の奥方の寄進により三千坪の敷地を擁し、一般民衆が参詣できない格式の高い
お寺でしたが、当時その一隅に誰もがお参りできる、手を長く伸ばし足をつま先立て薬壷を
持った、毒消し薬王菩薩様がおわしまし、「さしのべさん」と呼ばれて一般民衆の信仰を集め、
一説には「薬王寺」という寺名の縁起となったとも言い伝えられています。
薬王菩薩は、法華経に登場される菩薩様で、法華経を聞き得た恩に報いるため、自身の身を
焼き、更にのち自身の両ひじを燃やす苦行をし、法華経の行者の守護を誓われた民衆救済の
菩謹様です。
 
かのうすい(叶水)
仏教ては、悲願成就の第一は罪障消滅と言われています。その罪障消滅は懺悔(反省)によって
叶うと言われます。皆様の悩みや願いを(きかのう『鬼叶う』)紙にしたため、日頃の反省と
ともにさしのべさんの手に触れ合わせたあと叶水にお納めください。
過去に犯してしまった罪障や気付かぬうらに犯してしまっている罪障をこの聖水で洗い流す
ことから、悲願成就の道が開けるのです。
 
縁起
その昔、当山は夜光寺と呼ばれており、毎夜、裏山に光を放っ箇所があったことから、山からの
湧き水は霊験あらたかと評判になり、民衆が挙って汲みに来たとの言い伝えがあります。」
 
祈珠之塚
念珠は、古から人の煩悩や天地の厄を吸収してくれると信じられ「お守り」として身に着けて
いた風習が日本各地にありました。
祈珠之塚は、種々の想いを念じながら身に着けられていた念珠を、懇ろに供養し大自然にお返し
する為建立された念珠供養塔です。

 

鎌倉ならではの「やぐら」もあります。

階段を上ると、小高いところには観音堂があります。

観音堂

 
ブログランキングの応援よろしくお願いします😄

 

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへにほんブログ村

 

神社・仏閣ランキング

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔

2023-12-12 | 

鎌倉市扇ヶ谷にある薬王寺は、かつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院でしたが、 1293年(永仁元年)日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗しました。

日達聖人は、有力な外護者の援助を得て、七堂伽藍完備の立派な寺院とし、山号寺号を大乗山薬王寺と改称。

寛永年間、駿河大納言徳川忠長の追善供養の為、奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)は莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に諸堂を造営し、大乗山薬王寺と改称。

1720年(享保5年)の火災で、五重塔(徳川忠長供養塔)など諸堂を焼失。


山門をくぐると本堂が見えて来ます。

 もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。
 徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川・蒲生家と縁が深く、寺紋に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした。
 明治初期の廃仏毀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。
 本堂正面の日蓮坐像は、第十一代将軍家斉公の命により幕府が造立、説法形の口を開けた珍しい像です。


その本堂の右側に、「駿河大納言 徳川忠長公 供養塔」があります。

駿河大納言 徳川忠長公 供養塔

駿河大納言 徳川忠長公(三代目将軍 徳川家光公 弟)は、粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28歳で自刃させられ所領も没収された。
悲歎やるかたない奥方松孝院殿(織田信長 次男 信雄の息女)は、時の当山三世恵眼院日珖上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み追善供養のために当供養塔を建立した。

徳川忠長

1606‐33(慶長11‐寛永10)
江戸前期の大名。幼名国松。世に駿河大納言ともいわれる。2代将軍秀忠の三男。母は正室江与の方(崇源院)。3代将軍家光の弟。甲府20万石にはじまり,1624年(寛永1)甲斐・駿河などで55万石を領し,駿府城に入る。才知にすぐれ父母に寵愛されたため家光にはうとまれたといわれ,また30年ころから乱行が目だったため,31年甲府に蟄居(ちつきよ),翌年上野高崎城に幽閉され,33年自刃した。これにより徳川宗家権力は強化された。(コトバンクより)


徳川忠長の供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていたため、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺だったそうです。

ブログランキングの応援よろしくお願いします😄

 

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへにほんブログ村

 

神社・仏閣ランキング

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家康の側室・英勝院ゆかりの英勝寺

2023-12-01 | 徳川家康

鎌倉市扇ガ谷にある英勝寺は、鎌倉唯一の尼寺です。

寺域は、開基英勝院尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡とされています。

太田道灌4代の太田康資の娘とされるお勝の方は、徳川家康の側室です。

家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めました。

家康の死後は落飾して英勝院と称し、3代将軍・家光より扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建しました。

第一世庵主は頼房の娘・小良姫(清因尼)で、以降は水戸徳川家のお姫さまが庵主を務めました。
 
そのため水戸様の尼寺と称され、法要に際しては徳川将軍菩提寺の増上寺などから僧が派遣されました。

1923年の関東大震災で倒壊した山門は市内の他所に移されていましたが、2011(平成23)年に境内の元の場所に再建されました。

 

山門

仏殿

竹林と紅葉のコラボが美しい!

鐘楼

総門前のイチョウが見事でした。

 
ブログランキングの応援よろしくお願いします😄

 

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへにほんブログ村

 

神社・仏閣ランキング

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする