日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

了運寺(知立市)

2023-09-30 | 仏閣

知立神社に向かう途中、この門に惹かれて立ち寄りました。

了運寺の創建は不詳ですが知立神社の別当寺院であった神宮寺七坊として開かれたのが始まりと伝えられています。

元は天台宗でしたが明応2年(1493)、浄林了運大和尚が浄土宗に改宗し、了運寺と改めました。

明治の廃仏毀釈運動により、神宮寺であった総持寺が廃寺になると、多くの仏像が了運寺に移され、後に総持寺が再興されると戻されたそうです。


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岡崎の大林寺(2)岡崎城主と赤穂浪士の墓

2023-09-16 | 

大林寺の墓所には、松平氏入城以前の岡崎城主・西郷頼嗣、信貞の墓などもあります。


西郷頼嗣の墓

初代岡崎城主

次第に松平氏に圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服した。
(Wikipediaより)

西郷信貞の墓

4代・岡崎城主

大草松平家初代当主・松平光重の子とするのが一般的であるが(『寛政重修諸家譜』など)、実父は西郷弾正左衛門頼嗣であるとも言われ、それゆえ西郷信貞として呼ばれることがある。

兄・親貞の後を継いで同家の3代当主となり、岡崎城(明大寺旧城)を居所として、岡崎市南部および大草城(愛知県幸田町北部)を支配したと考えられる[4]。大永4年(1524年)に松平清康による山中城(岡崎市舞木町城山)への攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂(七郎右衛門忠茂)の調略によるものとする『三河物語』の記述がある。

岡崎の地を明け渡すと共に娘「於波留」を清康に嫁がせ、自らは大草に隠遁した。墓所は大林寺(岡崎市魚町1-6)。法名・泰叟昌安禅定門。

これに対して、村岡幹生が何らかの事情(安祥松平家の内紛か?)によって安祥城を離れていた松平清康が昌安の婿養子に迎えられて岡崎城に入ってこれを継承し、後に安祥松平家を継承したとする新説を唱えている。

子は七郎「昌久」とされ(「干城録」巻2)、また娘は上記・清康の正室のほかに水野忠政の正室がいる(「寛政譜」新訂6巻33項)。
(Wikipediaより)

 

そして、赤穂浪士・矢頭右衛門七教兼の墓までありました。

矢頭右衛門七教兼の墓

矢頭教兼(やとう のりかね、貞享3年(1686年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は右衛門七(えもしち)。四十七士の中では大石良金に次いで若年であり、母妹の世話に苦難したことで知られる。『仮名手本忠臣蔵』の佐藤与茂七(さとう よもしち)のモデルとなった。

吉良邸討ち入り時は表門隊に属し奮戦。また、討ち入り時には父の腰巻を付け戒名を懐に忍ばせていた。三河岡崎藩・水野忠之の芝中屋敷にお預けとなる。水野家では矢頭ら九人を使ってない長屋にまとめて入れ、外から戸障子などを釘付けにし昼夜見張りに巡回させた。「九人のやから、差し置き候庭のうちへも、竹垣これをつむ」「寒気強く候にて臥具増やす冪あり申せども、その儀に及ばず初めの儘にて罷りあり」と義士に厳しい対応をした記録が残る。酒や煙草・火鉢も禁じた。 元禄16年2月4日に水野家臣・杉源助の介錯で切腹した。享年18。他の浪士とともに主君・浅野長矩と同じ芝泉岳寺に葬られた。(Wikipediaより)

後に介錯した源助が当寺に供養塔を建て、菩提を弔ったといいます。


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岡崎の大林寺(1)松平廟

2023-09-06 | 徳川家康

岡崎の大林寺は、明応2年(1493)、松平光重が天盈良倪(てんえいりょうげい)を開山として明大寺に創建、当初は光林寺と称していました。

享禄3年(1530)、徳川家康の祖父・松平清康の命で現在地の岡崎城の北に位置する魚町に移転されました。

天文4年(1535)12月、清康は尾張の守山城で変死し、遺骸は随念寺で荼毘にふされました。清康の夫人・春姫(西郷信貞の娘)は尼となり、天文17年(1548)2月、大林寺にて死去。

天文18年(1549)、清康の子で、家康の父・松平広忠も若くして亡くなります。

松平氏は織田氏・今川氏への影響を恐れ、ひそかに遺骸を大林寺に移し、能見村に葬り、清康、広忠、春姫の霊廟が本寺に置かれることとなりました。

境内の一角に「松平廟」があり、松平清康、広忠、清康夫人・春姫の墓が並んでいます。

それらの真ん中にぽつんとある獅子の頭の形をしている石は、「獅子頭」と呼ばれています。

この石は、幼い頃に人質に出され、父を失い、不遇の幼少期を送った8才の竹千代(後の家康)が、立派な武将に成長したら、岡崎城に戻った時に父の墓を建てる」と決意し、家来に命じて岡崎城から運ばせたものだそうです。


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