日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

鞆の浦の寺社・史跡めぐり(11)安国寺

2015-10-30 | 仏閣
安国寺は、南北朝動乱の戦死者を弔うために、足利尊氏・直義兄弟が国ごとに造ったお寺です。



この備後安国寺も、室町時代の建物と考えられていましたが、後の調査により、鎌倉時代、文永10年(1273年)無本覚心(法燈国師)を開山として金宝寺として創建されたものと判明しました。




南北朝時代、足利尊氏により寺号を「安国寺」と改めました。

安土桃山時代に、毛利輝元、安国寺恵瓊により再興され、江戸時代初期に、京都妙心寺の末寺となりました。

釈迦堂





室町時代中期建立。禅宗様建築で、鎌倉時代の典型的な唐様の技法がみられ、堂内の木造阿弥陀三尊像・木造法燈国師座像とともに国重文に指定されています。


子安観音堂

昭和期再建。

鞆の津塔
 

承応3年(1654)鞆の豪商が建立した鞆独特の石塔。

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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(10)小烏神社

2015-10-23 | 神社
小烏神社は、沼名前神社の境外末社で、地元の人たちから「こがらっさん」の愛称で親しまれています。





福島正則が鞆の浦の城下町を整備した際、鍛冶工をこの地域に集めて鍛冶屋町を造り、その中心にあるのが小烏神社です。由緒書きによると、創建の年代は不詳となっていますが、室町時代後期に、鍛冶を生業とする人たちが、氏神様として祀ったのが起源ではないかといわれています。

拝殿


本殿


金古稲荷神社


小烏神社の境内は、南北朝時代の古戦場にもなっています。

1349(正平4)年、足利尊氏の弟・直義の義子であった直冬は、中国(長門)探題として鞆の浦の大可島城に赴任しました。

当時、高師直(こうのもろなお)と直義が対立しており、直義が高師直によって追われたことを知った直冬は、高師直・尊氏と戦いますが、敗れて九州に敗走したとされています。(小烏の合戦)

12月には例祭である「ふいご祭り(鉄鋼祭)」も開かれるそうです。



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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(9)正法寺~善行寺~大観寺

2015-10-16 | 仏閣
正法寺


1598(慶長3)年に創建された正法寺は、京都の東福寺派・守意を開祖とした寺で、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用されました。



境内のお堂には、鞆町の信者により寄進された十六羅漢像が安置されています。



善行寺


善行寺は天文年間(1532~1554年)に、法善という僧侶によって上山田村(熊野町)に開基されたのがはじまりと伝えられています。



その後、慶長2(1597)年、玉伝和尚が医王寺下に遷し、その子・玉真が、正保年間(1644~1647年頃)に、現在地に再移転。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿となっていました。

大観寺


麾尼山大観寺は昭和初期に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合した寺院で、朝鮮通信使の上官の宿舎になっていました。



裏にまわってみると・・・



このような空き地になっていて「え?工事中?」とこの時は思ったのですが、後で調べてみたら、2014年5月に火災が発生し、本堂及び庫裏が全焼してしまったそうです。(;O;)

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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(8)本願寺~慈徳禅寺

2015-10-08 | 仏閣

興楽山本願寺。本願寺の開基は、鎌倉時代の一遍上人と伝えられ、瀬戸内の時宗の拠点であったといわれています。
元は沖見堂(沖御堂)といい、鞆港に近い西町にありました。



当時は、五坊を有する大伽藍でしたが、毛利氏に寺領の大半を没収され、その後福島正則によって行われた慶長年間の町割りで、町の北側の現在地に移転しました。



こちらも江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもありました。


慈徳禅寺は、大悲山慈徳禅院、臨済宗のお寺です。



福島正則が大檀越となり、ご本尊である聖観世音菩薩像を寄進し、高僧・松雪得松禅師が開基したと伝えられています。

その後、中興の祖・月湛(げったん)亮和尚が本堂を再建しました。



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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(7)沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)

2015-10-02 | 神社
沼名前神社は、平安時代の延喜式にも記載されている由緒正しい神社です。
海上安全に効験のある大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る「渡守(わたす)神社」と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀り無病息災を祈願する「祇園社」が明治時代に統合され、沼名前神社となりました。
地元の人からは、「祇園さん」と呼ばれ親しまれています。


第二鳥居


江戸時代の寛永2年(1625年)に水野勝重(のちの2代藩主・水野勝俊)が長子(のちの3代藩主・水野勝貞)の誕生に際して、この健康を願い寄進しました。
笠木の先端は丸味を付けて反り上がっており、さらに鳥衾(とりぶすま)が載せられた独特な形をしています。





随身門


能見所




境内には秀吉遺愛の能舞台があります。

能舞台(重要文化財)


かつて京都伏見城にあったものを、福山城主・水野勝成が二代将軍・徳川秀忠より拝領し、それを沼名前神社に寄進したとのことですが、 また、家康建造とも伝えられています。
簡単に分解して移動できる組み立て様式の能舞台なのですって。






境内社


八幡社、竈社・塞社、松尾神社・稲荷社・地主社、厳島社・艮社、渡守社、護国社などがあります。

渡守神社

社伝では、第14代仲哀天皇2年に神功皇后が西国に向かった際、当地の霊石に綿津見命を祀り海路安全を祈ったことに始まるといいます。そして帰途に際し、綿津見命の前に「稜威の高鞆(いづのたかとも。鞆は弓具の1つ)」を奉じたことから、「鞆」の地名が起こったとも。

鞆祇園宮

天長年間(824年-834年)の創建とも、保元年間(1156年-1159年)の勧請によるとも伝えられています。
元は鞆の関町に鎮座していましたが、慶長4年(1599年)の火災で焼失し、現在地に遷座したといいます。

明治に渡守神社と鞆祇園宮を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称。
渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至っています。


拝殿






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