日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

妙心寺の塔頭寺院(7)金牛院

2017-10-25 | 仏閣
金牛院(きんぎゅういん)は、慶安3年(1650)、環陵(かんりょう)を開祖として創建されました。



元は、北総門外の谷口(たにぐち)村にありましたが、明治11年(1878)、妙心寺境域内の万猷院(ばんゆういん)に併合され現在地に移転。

明治6年に万猷院を金牛院に改めました。



元和年中(1615~24)に妙心寺境域内に創建された松濤庵がその前身であるともいう説もあるとのこと。


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妙心寺の塔頭寺院(6)寿聖院

2017-10-18 | 仏閣
寿聖院は、慶長4年(1599)関ケ原合戦の前年に、石田三成が父・正継の菩提所として、妙心寺六十二世伯蒲慧稜(はくほえりょう)禅師を開祖として創建されました。



当初は現在の四倍以上の面積に本堂・客殿・庫裏・書院が並んでいましたが、関ケ原敗戦後、縮小を余儀なくされ、慶長16年、二世雲屋(うんおく)は再興の許可を受けて、書院を残して本堂としました。

当院三世の済院(さいいん)は、三成の嫡子・重家で、関ケ原戦後、大坂城より当院に逃れて、伯蒲の弟子となって嗣法(しほう)し、境内の一隅に石田一族の供養塔を建立しました。(妙心寺HPより)



異説としては大坂城より脱して(妙心寺ではなく)高野山に奔ったというものがいくつかあり、『豊内記』では高野山に逃れた後に殺されたとしている。また別に晩年の重家は仏門から還俗して和泉国岸和田藩の藩主・岡部宣勝の庇護を受けながら、岸和田で死去したという説もある。(Wikipediaより)

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妙心寺の塔頭寺院(5)天祥院

2017-10-08 | 仏閣

妙心寺の塔頭寺院・天祥院は、正保2年(1645)、奥平松平家2代・松平忠弘が父・忠明の菩提を弔うため、武蔵国天祥寺の世代であった乳峯禅師を招請して創建。



明治11年(1878)に延宝年間開創の慈性院を併合。

明治19年、土蔵と門を除く諸堂宇を焼失しましたが3年後に再建され、昭和51年に本堂が再建されました。



また、かつて奥襖絵として狩野山楽の「老梅図襖」がありましたが、明治期の廃仏毀釈で流出し、米国メトロポリタン美術館に所蔵されています。

しかし、近年、京都文化協会とキヤノンの最新のデジタルアーカイブ事業によって高精細複製されたそうです。

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