日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

桶狭間の戦い(5)七ツ塚

2014-01-31 | 織田信長
七ツ塚(ななつづか)は、名古屋市緑区桶狭間北2丁目にある史跡です。



勝利を収めた織田信長は、全軍を釜ヶ谷あたりに集め、勝どきをあげ、村人に命じてこのあたりに七つの穴を等間隔に掘らせ、大量の戦死者を埋葬させたといいます。



桶狭間の戦いでの戦死者は、両軍合わせて、約3,500名と言われており、古戦場まつりの万灯会では、3,500本のローソクを灯して供養するそうです。



また、この塚を取り崩したりすると「たたり」があると言われ、命を失った人もいると伝えられています。

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桶狭間の戦い(4)釜ヶ谷

2014-01-24 | 織田信長
釜ヶ谷は、桶狭間の戦いで、織田軍を勝利に導いた重要なポイントで、現在は大学の駐車場になっています。



善照寺砦から中島砦を経て桶狭間に進軍した信長軍が、荒れ狂う雷雨の中、おけはざま山に陣取る今川本陣への突撃のチャンスを待っていた所です。



信長は雷雨が上がると、すかさず今川本陣へ突撃を命じて、今川義元を打ち取り、大勝利を収めました。





信長軍が一気に駆け上がったとい信長坂





頂上付近





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桶狭間の戦い(3)高根山

2014-01-18 | 今川義元
続いて名古屋市緑区の桶狭間の戦いの史跡を紹介します。

有松駅を降りると、このような看板があります。





急な上り坂をのぼって向かったのが、高根山です。

高根山は、今川軍の先陣隊が、鳴海、大高方面に対して備え布陣していた所で、桶狭間の南北に連なる丘陵にあります。



標高54mあり、鳴海城、善照寺砦、中島砦が一望でき、織田軍を監視したといいます。

高根山から幕山にかけ、松井宗信率いる約1,500名の兵が、そして巻山には約1,000名の井伊直盛隊が陣取っていました。



山頂には、有松神社があり、日清、日露、太平洋戦争で亡くなった人を祀っています。







忠魂碑


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桶狭間の戦い(2)桶狭間古戦場跡(緑区)

2014-01-10 | 今川義元
桶狭間古戦場跡は、名古屋市緑区桶狭間北3丁目にある史跡で、現在は「桶狭間古戦場公園」として整備されています。







2010年、桶狭間の戦いから450年目に改装工事が行われ、当時の合戦の様子を再現したジオラマ風公園にリニューアルしました。この場所は桶狭間の戦いで今川義元が、服部小平太と毛利新介によって討ち取られた最後の場所とも言われ、公園内には今川義元の墓や杜松の木・首洗いの泉などがあります。



桶狭間古戦場の碑(この碑の画像はWikipediaよりお借りしました)


昭和時代初期に鞍流瀬川の川底から引き上げられた石碑

桶狭間古戦場田楽坪の碑


約4万5千を率いる今川義元は午前8時頃沓掛城を出発し、正午北西に向かって人数を備え、おけはざま山にて、今朝攻め落とした鷲津・丸根両砦の報告を聞きながら休息をとりました。信長は善照寺砦に到着、敵情の報告を受けた後、佐々・千秋の隊3百に、巻山・幕山・高根山に着陣した今川軍本隊の主力、松井・井伊の大軍の中央部に攻撃を命じ、自らは中島砦に移動、次いで前田(利家)、毛利等の精鋭隊に、前線での撹乱戦を命じました。これら先遣隊は、今川軍の兵力分散と、西の山中に誘い込むための決死隊であったと思われます。
この時、信長は「運は天にあり、敵が懸からば引け、退けば押せ、個々の巧名争いを避け、常に組織的に行動せよ」と訓示を行い、先遣隊が必死の戦いを挑んで、敵の目を引き付けている間に、兵2千を率いて疾風の如く駆け抜けて桶狭間の北の山麓に駒を進めました。
その頃、一天伐かに掻き曇り雷を伴った大風雨の中、山を越え狭間を抜けて、今川軍の本陣に迫りました。(桶狭間古戦場保存会HPより)







義元首洗いの泉




義元水汲みの泉とも言われ、泉の中にくるくる回る桶があったので、桶廻る狭間が桶廻間、桶狭間となったとも言われています。 



今川義元の墓






駿公墓碣(すんこうぼけつ)


田楽坪のねず塚から出土した「駿公墓碣」と刻まれた墓碑。
「駿公墓碣」の「駿」とは、すぐれた又は秀でたの意味し、駿公とは駿河の国のすぐれたりっぱな人との意味。
墓碣とは頭部が丸い形状をした墓石で、方形をした物は墓碑と言います。

馬つなぎの社松


義元が馬をつないだと言われる「ねずの木」です。触れると熱病に罹るとの伝承があり、ねず塚にあったものを移植し今は枯木として残しています。



「近世の曙」ブロンズ像


織田信長


今川義元



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桶狭間の戦い(1)桶狭間古戦場伝説地(豊明)

2014-01-05 | 今川義元
「桶狭間の戦い」といえば、誰もが知る永禄3年(1560)の織田信長対今川義元の戦いですね。
しかし、合戦の実態については不確かなことも多く、さまざまな議論を呼んでいます。

豊明市と名古屋市緑区の「本家争い」は、今川義元戦死の地が大脇村(屋形はさま)に属していたか桶廻間村(田楽坪)に属していたかについて、後年のそれぞれの所属自治体(愛知郡豊明村→同郡豊明町→豊明市、知多郡有松町→名古屋市緑区)が自らの行政区域に属すると主張しあうことで、繰り広げられてきたものである。義元敗死の地をもって古戦場と見なす考えかたから、屋形はさまと田楽坪は、現在それぞれ「桶狭間古戦場伝説地」・「桶狭間古戦場跡(桶狭間古戦場公園)」として、それぞれの自治体から史跡の扱いを受けている。
昭和時代の初めに「桶狭間古戦場の碑」が鞍流瀬川の底から引き上げられ、この頃より有松町の田楽坪を今川義元戦死の地とする主張が本格的になったとみられることから、「本家争い」が表面化したのは昭和時代以降の、比較的近年であるともいえる。(Wikipedia)


一昨年の9月、この二つの「桶狭間古戦場伝説地」「桶狭間古戦場跡古戦場」を訪ねて来ました。
まずは、桶狭間古戦場伝説地を紹介します。

桶狭間古戦場伝説地は豊明にあり、国の史跡に指定されています。



桶狭間の戦いの際に今川義元が敗死した推定地のひとつとして「屋形はさま」の名で古くから知られています。



桶狭間の戦い

今川義元は、約2万5000人の軍勢を率いて永禄3年(1560年)5月12日に駿府(静岡)を出発した。17日に岡崎へ、18日には沓掛城に入り、尾張大攻撃の準備をした。
織田信長は、5月19日未明清洲城出陣に際し、幸若舞の敦盛を舞い、馬上の人となった。清洲を出るときは、主従わずかに6騎、途中輪乗りをかけて人数を待ち、熱田神宮に戦勝祈願をした頃は、1000人余りとなり、合戦のときには軍勢3000人ほどになった。
今川軍は、難なく丸根・鷲津を攻め落とし、本陣は桶狭間の松林に休憩して、戦況を聞きつつ昼食をとっていた。その折、天候が急変して夕立となり、狼狽する義元勢をめがけ、太子ヶ根に待機していた信長は一挙に本陣めがけて切り込んだ。信長の家臣服部小平太が、槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取った。(豊明市HPより)


七石表


今川義元の戦死した場所を示す最も古いもの。

今川治部大輔義元墓



明治9年に建てられたものです。

今川義元仏式の墓


万延元年に建てられたもの。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔型式であり、そのため「仏式の墓」と呼ばれています。

桶狭弔古碑


古戦場が放置され荒れ果てていくのを嘆き、その由来を明らかにするとの趣旨が、裏面の碑陰記に記されています。






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