日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

鞆の浦の寺社・史跡めぐり(6)小松寺

2015-09-23 | 仏閣
小松寺は、1175(安元元)年に、平清盛の長男・平重盛が、厳島神社へ参拝する途中、静観寺の境内に、旅の無事を祈る阿弥陀仏像とお堂を建立したのが、小松寺の始まりとされています。







境内には、重盛が植えたという巨大な松がありましたが、1954(昭和29)年の台風で倒壊し、
枯死してしまったそうです。

足利尊氏・直義兄弟、足利義昭、朝鮮通信使などともゆかりのあるお寺です。




有髪薬師地蔵尊




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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(5)静観寺~妙蓮寺~顕政寺

2015-09-16 | 仏閣

静観寺

806(大同元)年、最澄の創建と伝えられ、当時は、7000坪の大敷地に五重塔七堂伽藍が建ち並び、大変に栄えていたといいます。





江戸時代、朝鮮通信使の常宿ともなりましたが、度重なる戦乱や火災によって、多くの文化財は焼失してしまいました。

妙蓮寺

慶長年間(1596~1614年)に創建されたと伝えられています。





福山藩主水野勝俊からの庇護もあり、勝俊の位牌が伝わっています。



境内には、承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があります。
江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもありました。

顕政寺



足利義昭が身を寄せていた熊野町の常国寺の末寺でしたが、慶長年間(1596~1614年)福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成されました。 元禄5年(1692年)に第三世が寄進した大曼荼羅があります。



元禄年間の山門、本堂、庫裡が当時のまま残っています。



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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(4)山中鹿之介の供養塔とささやき橋

2015-09-09 | 史跡
静観寺の前に山中鹿之介の供養塔と「ささやき橋」があります。



尼子十勇士の1人、山中鹿之助はで、上月城の戦いで、毛利勢に降伏し、毛利輝元の下へ護送中、高梁川の「阿井の渡し」で謀殺されました。




備中松山城にいた毛利輝元が、首実検をし、鹿介の首は備中松山城より鞆城へ送られ、その時鞆にいた将軍・足利義昭も首実検したそうです。




鹿介の首は、この首塚の近くに埋葬されたと伝えられています。

また、岡山県の阿井の渡しには胴塚があるそうです。

鹿介は、尼子氏が衰亡していく中、御家再興のため、

願わくば、我に七難八苦を与えたまえ

と三日月に祈ったといいます。


ささやき橋


応神天皇の頃、百済よりの使節の接待役、武内臣和多利と官妓江の浦は役目を忘れ、人目を忍んで夜毎この橋で恋を語り合っていました。それが噂になり二人は海に沈められました。
それから密語の橋と語りつがれています。


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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(3)法宣寺

2015-09-01 | 仏閣
法宣寺の創建は南北朝時代の1358年(正平13年)、開基は大覚大僧正と伝えられ、日蓮宗大本山妙顕寺(京都市上京区)の末寺です。





1358年、大覚は鞆の浦に法華堂を建立し、この地を拠点として説法を始めました。
それ以後、鞆の浦は西国における法華布教の重要拠点となり、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院となって存続し、江戸時代には朝鮮通信使の宿所として使用されていました。



法宣寺の天蓋マツは、法宣寺の境内に生育していたクロマツの巨木で、大僧正手植えの木と伝えられ、推定の樹齢は630年とされていました。



本堂の向かって左側から生え出たマツは、ほとんど本堂の前庭を覆うほどに大きく枝を広げ、その形が仏像などに差し掛ける装飾の「天蓋」に似ているため、「天蓋マツ」という名称で呼ばれるようになったとか。
1944年(昭和19年)に国の天然記念物に指定されましたが、1991年(平成3年)夏に枯死してしまったそうです。



現在は支柱がこのように残されています。



当時の松の画像
(Wikipediaより)

天蓋マツの代わりではありませんが、当寺の塀の前に立つ松が目立っていました。



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