日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

教証寺

2015-05-23 | 仏閣
東京メトロ湯島駅から歩いて数分のところにある教証寺は、徳川忠長に嫁いだ教証院殿(長姫)が、その子息久遠寿院殿に従って、上野下のこの地に教証院と号して起立し、教証院殿の25回忌の寛文7年(1667年)に教証寺と改めたと伝えられてます。(PORTAL TOKYOより)



墓地には、江戸時代中期の歌人・柳瀬美仲(1685~1740)の墓があり、都の史跡に指定されています。
美仲は、浜松に生まれ、京都で詠歌を武者小路実隠の門に学び、のちに江戸に出て和歌を教授しました。



柳瀬美仲墓(やなせびちゅうはか)

池之端一丁目二番五号 教証寺
 
 柳瀬美仲(一六八五~一七四〇)は徳川時代中期の歌人。宝永二年遠江国浜松に生まれ、名を方熟、字は美仲、号を隠江翁と称していた。京都に居住して詠歌を武者小路実陰の門に学び、後、江戸に出て和歌を教授した。

 はつせ路や  初音聞かまく尋ねても  まだこもりくの山ほととぎす

の一首によって、世人は美仲を「こもりくの美仲先生」と呼んでいた。著書には『秋夜随筆』その他がある。元文五年五月十七日、年五十六で歿した。墓石には「隠口先生美仲甫之墓」とあり、巷間に「こもりく先生」の名がもてはやされたことが知られる。(東京都教育委員会)


こちらも偶然通りかかったお寺です。
ふと、案内板の「浜松生まれ」というところに目が留まり、境内に入ってみました。
美仲さんのお墓の場所はわかりませんでしたが、後で調べたところ、墓石には「隠口先生美仲甫之墓」と刻まれているそうです。

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本性寺

2015-05-16 | 仏閣
「四谷三丁目駅」徒歩6分ほどのところにある本性寺には、塙保己一の師で国学者の萩原宗固の墓があります。



毘沙門堂は、釘1本も使わない手斧削りの切組造で、建造年代は元禄頃とされています。





本性院と北向き開運毘沙門天
 
 平等山本性寺の宗旨は日蓮宗。下総國小平宿平賀(千葉県松戸市)本土寺の末寺で、設立の縁起は家康の江戸入府に従って来た三河の郷土三田佐兵衛尉守綱(妙傳院殿蓮向日香大居士)が、麹町九丁目あたり営んでいた隠居所を、寛永十八年(1641)観智院日泳上人に譲渡し、三田氏の没後、寛文十年(16 70)その菩提を弔うため本性院が設立されました。
 この山門と正面にある毘沙門堂は戦災に焼け残った四谷では、数少ない貴重な建築物である。双方とも総ケヤキ、釘を一本も使わない切組造り手斧削りで、建造年代は元禄頃とされている。
 毘沙門堂に安置されている毘沙門天像は、もと江戸城本丸にあったもので、太田道灌時代から伝わって いるとされ、五代将軍綱吉の側室、春麗院殿の発願により、堂とともに本寺に寄進された。この像は別名 「北向き毘沙門天」といわれ徳川家康が北方の仙台伊達氏が謀反を起こさぬよう、北方の守護神、毘沙門 天を北向きに安置して祈願したという伝説がある。以来江戸庶民の尊崇を集め、福運財運のご利益が顕著なので開運毘沙門天として、一般の篤い帰依と信仰の的となっております。(駒札より)





萩原宗固(はぎわらそうこ)の墓
 
江戸時代中期の国学者・歌人萩原宗固(1703〜84)の墓地。
平成六年に改葬整備され、宗固の養父、母の墓石が並べて建てられている。
宗固は市谷本村町の生まれ。享保から天明(1716〜1780年代)に国学者・歌人として活躍し、 門人として国学者で「群書類従」を編纂した塙保己一や老中として寛政の改革を断行した白河藩主松平 定信など著名な人物を養成した。
特に塙保己一(1746〜1821)は、「群書類従」の編纂に宗固の蔵書等を参考にするなど、大きな影響を受けたという。
宗固は四谷左門町・荒木町に居住するなど、新宿とのつながりの深い学者である。(駒札より)

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西応寺

2015-05-10 | 仏閣
四谷のお岩さんゆかりのお寺から歩くこと数分。

またノーチェックだったお寺が現れました。

新宿区須賀町の西応寺は、慶長12年(1607)麹町貝塚夫婦坂に周桂和尚が創建、寛永12年当地へ移転しました。

西応寺には、最後の剣客と称された榊原鍵吉の墓があります。

と書かれていたので、墓所に行ってみたのですが、特定することできませんでした。
なので、本堂と駒札の画像のみアップします。





新宿区指定文化財 史跡 榊原鍵吉の墓
 
幕末から明治にかけて活躍した、最後の剣客榊原鍵吉は、天保元年(1830)麻布広尾に生まれた。
12歳のとき、麻布狸穴の直心影流男谷精一郎門下となり、嘉永2年(1849)には免許を うける。
安政3年(1856)幕府講武所の剣術教授方に登用され、文久2年(1862)には同師範に昇進、元治元年(1864)には下谷車坂の屋敷で道場を開いた。
慶応二年(1866)には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍するが、明治元年(1868)8月徳川家達に従い静岡に移住した。
その後、明治政府より再三招かれるが断り、明治6年(1873)撃剣会を発足させ、維新後衰退した剣術の再興と普及に努めた。
明治二十七年(1894)9月11日死去したが、亡くなるまで髷を切らず、最後の剣客と称された。
(新宿区教育委員会)



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四谷怪談ゆかりの陽運寺

2015-05-04 | 仏閣
田宮稲荷神社の角を曲がろうとしたら、もう一つのお岩さんゆかりの陽運寺というお寺に偶然出会ってしまいました





陽運寺は、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗の寺院で、水戸市の本山久昌寺の貫首であった蓮牙院日建上人が昭和の初め頃建立しました。



本堂


宝暦七年(1757)建造の薬師堂を移築した寄木造りの建造物。

本堂にはお岩様の木像が安置されているそうです。

お岩様をお祀りしていることから「於岩稲荷」とも呼ばれています。





境内にはお岩様ゆかりの井戸があります。





お岩様ゆかりの御霊水









歌舞伎興行の際には安全と成功を願って役者など関係者が、また、悪縁を除き、良縁を招く縁結びにご利益があると、全国各地より多くの参拝者が訪れるそうです。(陽運寺HPより)

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四谷怪談ゆかりの田宮稲荷神社

2015-05-01 | 神社
東京メトロ丸ノ内線「四谷三丁目駅」から約徒歩5分のところにある田宮稲荷神社





鶴屋南北作「東海道四谷怪談」のモデルとなった伊右衛門の妻・お岩さんを祀ったお岩稲荷神社の旧地で、東京都指定旧跡となっています。



四谷怪談の物語は、四谷左門町の浪人・伊右衛門は、妻を裏切った上、毒殺し、その亡霊に苦しめられ死んでしまうという話で、文政8年(1825年)、浅草の中村座で上演し、大ヒットしました。

しかし、これはあくまでも物語でのこと。



実際は・・・

幕府の御家人・田宮又左衛門の娘・お岩は、養子・伊右衛門の貞淑な妻で、夫婦仲はよく、夫婦ともども、代々家に伝わる稲荷を信仰していました。





幕末には、このお岩にあやかろうと「於岩神社」として信仰を集めていましたが、明治12年(1879)の大火で類焼し、翌年、現在の中央区新川に移転。新川を本社とし、左門町には飛地境内社として田宮稲荷神社が建てられ、お岩さんをお祀りしています。

ここは、調べていったわけではなく、目的とするお寺に向かって歩いていたつもりが、ひとつ通りを間違えて小路に迷い込んだところその通り沿いにあった神社でした。
お岩さんゆかりの寺社は、わざと行かないようにしていたのに、不思議な感じがします。

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