日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

泉涌寺(4)泉涌水屋形~清少納言の歌碑

2018-03-30 | 建築物
泉涌水屋形(京都府指定文化財)
 
 
泉涌水屋形は、泉涌寺の寺名の由来となった清泉を覆う屋形で、1668年(寛文8年)の再建です。
 
 
今も尽きることなく水が涌き出ています。
 
 
清少納言の歌碑

清少納言の父・清原元輔の旧居で、清少納言が晩年を過ごしたとされる月輪山荘にほど近い場所として、
 
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
 
の歌碑が建立されています。
 
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泉涌寺(3)勅使門~霊明殿

2018-03-20 | 仏閣

勅使門は、普段は閉じられており、皇室の方達や天皇の勅使が訪れた時に使用されています。

天保12年(1841)の火災で焼失し、弘化2年(1845)に再建されました。
 
 
 

霊明殿
 
天智天皇と光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置しています。
 
 
扉に菊のご紋がついています。
 
 
 
明治15年(1882)に火災で焼失し、明治17年(1884)に、明治天皇により再建されました。
 
 
入母屋造り、檜皮葺きの宸殿風建物です。

 

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泉涌寺(2)御座所庭園

2018-03-12 | 仏閣
昨年の秋、泉涌寺の御座所庭園を見学しました。
 
 
御座所は、仏殿・舎利殿の背後に位置し、江戸時代末期の安政年間に建立され、明治天皇が使用していた旧御所の御里御殿を1884年に移築したものです。
 
 
中には、女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがあります。
 
 
 
 
侍の間
 
 
玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用する部屋で、即位報告(1990年)、平安建都1,200年記念(1994年)、在位10年の報告(1999年)などの際に今上天皇が泉涌寺を訪れ、この部屋を使用しています。
現在でも、両陛下をはじめ皇族方の御陵御参詣の際の御休所として使われています。
 
また、内部の襖絵は狩野派をはじめ、江戸時代を代表する絵師によって描かれています。
 
 
御座所庭園は、境内の奥の本坊にあり、人が少なく「穴場」と呼べる場所です。
 
 
 
秋は紅葉が美しく、かつて、昭和天皇が御陵参拝の際、この庭をご覧になり
 
「春ふけて 雨のそぼふるいけ水に かじかなくなり ここ泉涌寺」
 
と詠まれています。
 
 
 

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泉涌寺(1)大門~仏殿~舎利殿

2018-03-02 | 仏閣
泉涌寺は、真言宗泉涌寺派総本山の寺院で、山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)といいます。
 
本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。
鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末の孝明天皇に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれています。
伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創したという説、空海が天長年間(824年-834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものという説などがあり、伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと思われています。
 
大門(重文)
 
慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したものです。
 
仏殿(重文)
 
寛文8年(1668年)、徳川家綱の援助で再建されました。
 

釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像を安置。
天井の竜の図と白衣観音図は狩野探幽の筆によるもの。
 
 
舎利殿
 
俊芿の弟子湛海が南宋慶元府の白蓮寺から請来したという仏牙舎利(釈尊の歯)を安置しています。
 
 
 
 
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