日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

桶狭間の戦い(10)桶狭間神明社

2014-03-27 | 今川義元

名古屋市緑区桶狭間神明にある桶狭間神明社は、正式名を神明社といいます。

桶狭間村は、14世紀の中ごろ南朝の落武者が山間に逃れ、隠れ住んだのが始まりとされ、村人たちによって祀られたのがこの神明社です。

現在の社殿は、昭和10年(1935)に改築されたもので、境内には、13の末社が祀られています。

桶狭間の戦いの際、今川方の瀬名氏俊が戦勝を祈願したといわれ、このとき奉献した神酒の酒桶とされるものが宝物として残されています。
また、それは今川義元が水を汲んだ桶であるともいわれています。

拝殿の両側に、尾張4代藩主・徳川吉通が知多巡幸の時植えた杉の枯木が植えられています。



神楽殿



(桶狭間古戦場保存会HP参照)

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桶狭間の戦い(9)戦評の松

2014-03-17 | 今川義元

長福寺から西に歩いて行くと、桶狭間の大池の前に「桶狭間寺前」のバス停があります。



そのバス停のちょうど後方に戦評の松と呼ばれる史跡があります。



今川義元の本陣の設営を終えた瀬名氏俊隊がここの松の根元で、軍議を開いたといわれています。

初代の松は、樹齢400年を過ぎた立派な松だったそうですが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で枯れてしまい、今の松は3代目に当たるそうです。



今の刈谷に住む漁師が、旧暦5月19日の未明、魚を名古屋の市場に届ける途中、この大松の下で休んでいると、大松の上の方から白馬に跨り、白装束の義元の亡霊が現れ、漁師にこのことを絶対に他人に話してはならぬと口止めして大池の方へ去って行きました。それ以来、漁師はこのことで悩み、ついに仲間に話してしまいました。するとその漁師は急に体調を崩し亡くなってしまったとのことです。
(桶狭間古戦場保存会HP参照)

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桶狭間の戦い(8)長福寺 

2014-03-09 | 今川義元

緑区の長福寺は、桶狭間の戦いにおいて敗死した今川義元の供養寺として知られています。

天文7年(1538)に、善空南立和尚の創建とされています。

桶狭間の戦いの際には、当地に到着した今川勢に酒食を提供し、労をねぎらったという逸話があります。

桶狭間の戦いの後、今川義元の茶坊主であった林阿弥が、織田方に捕えられ、境内の大杉の下で義元はじめ今川方武将の首実検を命ぜられたといいます。



大杉は供養杉として長らく境内にありましたが、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風によって倒れ、現在は2代目に当たります。







林阿弥は許されて故郷に帰りましたが、主君義元や家臣の菩提を弔うため再び寺を訪れた際に納めた阿弥陀如来が現在の本尊であるといいます。





堂内には今川義元と松井宗信の木像も安置され、桶狭間合戦記・鎧・槍などを所蔵しているとのことです。



薬師堂


観音堂

地蔵堂


寺から南の丘陵は、14世紀中ごろ南朝の落武者が住み着いた桶狭間村発祥の地であり、放生池に隣接する小さな泉は、村人の貴重な生活の水源であり、この泉は、これまで一度も水が枯れたことがないといわれています。

昔は、長福寺の前には鞍流瀬川が流れており、 当時は合戦により人馬の血と雷雨でこの小川が真赤に染まり、馬の鞍・鎧などが流れていたといいます。

 




(Wikipedia、桶狭間古戦場保存会HP参照)

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