日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

京阪電鉄で巡る旅(2)和田神社 石田三成が繋がれた大銀杏

2021-09-30 | 神社

和田神社の境内には、樹齢約650年、樹高約25メートルの大きな銀杏の木があります。

関ヶ原の戦いに敗れた石田三成が京都に護送される途中、 この銀杏につながれ小休止したという言い伝えが残っています。

この木は、かつては湖上を行く船の目印になったとも言われています。 

   天然記念物 和田神社のいちょう一株
 
 このいちょう(公孫樹)は滋賀県下において他に例を見ないほどの巨木で、樹高約24m、目通り周囲約4.4mあります。
 樹齢はおよそ約600年を経ていると推定され、多数の気根(地上の幹から出て空気中に露出した根)を垂れています。樹勢もすこぶる盛んで枝葉が密生し、樹形も均斉のよくとれた美しい姿を保つなど貴重な名木です。
 また、このいちょうは和田神社の神木として、さらに琵琶湖上から和田の浜の目標樹となっていたと思われます。
石田三成が関ケ原合戦後、捕われて京へ護送される途中、休止の際につながれた樹でもあると伝わっています。
 昭和51年12月に大津市保護樹木に、昭和53年2月に大津市の指定文化財となりました。
   大津市教育委員会
 
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京阪電鉄で巡る旅(1)和田神社 拝殿~天満宮

2021-09-22 | 神社

京阪電鉄「膳所本町」下車 徒歩10分のところに鎮座する和田神社は、斉明天皇、天智天皇、天武天皇のいずれの御世かとされる白鳳4年に、創祀されたと伝えられています。 

その後、八大龍王社や正霊天王社、などと時代の移り変わりとともに呼び名も代わり、明治維新のころに膳所藩主の令達により、現在の名前、 和田神社になったといわれています。

壬申の乱から間もない頃、湖に暮らす人々の安寧を願ってここに「海津見わだつみの神」が祀られ、祭神の名にちなんで、この地は和田浜や和田岬と呼ばれるようになりました。(和田神社公式HPより)

持統帝の朱鳥元年頃(西暦686年)から八大龍王社と呼ばれ、仁明帝の承和2年(西暦825年)から正霊天王社とも称され、明治維新の際膳所藩主の令達に依り和田神社と称さる。現在の本殿は、鎌倉時代の建築様式を代表する他に比類稀な特色を誇り、古代建築技術を保存するものとして著名である。明治35年国宝の指定を受け、その後昭和25年文化財保護法第115条の規定により重要文化財となった。(駒札より)

拝殿

本殿

透塀に囲まれた檜皮葺の一間社流造という社殿で、正面には軒唐破風をつけているのは県内でも珍しいといわれています。 


鎌倉時代後期の建築で、側面のかえる股などに時代の特徴が表れており、檜皮葺の屋根は安土・桃山時代に改築されています。

国指定の重要文化財

和田神社本殿一棟 

 本殿は、一間社流造の小さな社殿で、東面として建てられ、屋根は桧皮葺です。また正面には軒唐破風を付けるという、県内では珍しい建築様式をもっています。

 この建物には、後世の補修のあとも多く認められますが、側面にあるすっきりとした美しい蟇股などの細部については、鎌倉時代の様式をよく残しています。

 桧皮葺の屋根の、棟から前後の軒先へ流れるような線は、檜皮のもつ柔らかさと相まって美しく、建物の特色となっています。

 明治35年7月31日に国の指定文化財となりました。

     昭和63年11月 大津市教育委員会(駒札より)

  
収蔵庫

稲荷社
 

天満宮

 
 
 
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多賀町を巡る(14)多賀大社 「奥書院・名勝庭園」

2021-09-16 | 庭園

奥書院は多賀大社に残る最も古い建物で、江戸時代中期、安永12年再建の不動院書院跡です。









鶴の間





床の間に富士山と鶴が描かれています。



彦根藩井伊家の参内の時の休憩所ともなり、勅使の間ともいわれています。

狩野派の絵師による襖絵は、元々多賀大社の別当寺(神宮寺)であった天台宗不動院の大書院にあったもので、安永2年(1773年)の大火で大書院が焼失した際にも持ち出されて無事だったそうです。



庭園(国名勝指定)


奥書院から見下ろすように築かれた安土桃山時代の池泉観賞式の庭園で、広さは約二百坪。



正面に守護石を据え、左右に鶴と亀の岩島を配し、大きな自然石を渡して橋としています。
天正16年(1588)豊臣秀吉が、母・大政所の病気平癒を祈願して奉納した米一万石をもとに築造されたと伝えられています。

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多賀町を巡る(13)多賀大社「文庫~つり鐘」

2021-09-08 | 神社

文庫

桜田門外の変の後、彦根藩は勤王の旗印を刻印を明らかにしました。
この文庫は、江戸時代に多賀大社の神職などを務めた車戸(くるまど)家の文庫で、昭和7年の造営時に現在地に移築されました。幕末期の車戸宗功(そうこう)は勤皇の考えが強く、長州藩士ら勤王方と彦根藩老との仲介役を務め、徳川幕府家の井伊家の領内にある中で、長州の伊藤俊介(後の博文)らと、この文庫内で密会していたといいます。



大釜


寛永10年(1633)と元禄12年(1699)の銘が入った釜が2つあり、多賀大社が造営された竣工時に湯神楽に使うために寄進されたとされています。



神輿庫


昭和の造営時に、参集殿の西側から移築され、鉄筋コンクリートで築造されました。
神輿と鳳輦(ほうれん)が保管され、4月22日の古例大祭(多賀祭り)の際、町内を巡行します。


 
鐘楼


天文24年(1554)に不動院の別当・祐尊の歓進で鋳造されたもので、寄進者の中には浅井長政の幼名・猿夜叉も。
昭和61年の多賀講創設五百年の記念事業の一環で、現在地に新築された鐘楼内につり下げられました。



(滋賀彦根新聞参照)

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