ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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私達はなぜ皇室を尊敬できなくなったのか8

2018-04-10 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

高校2年生になった愛子内親王は東大にも入れるくらいのご優秀とマスコミは報道しています。ワイドショーでは一橋大学が志望だとか。東大と一橋では随分偏差値が違うような気がするんですけど、一体何を学びたいんでしょうね。

一方、小学6年生になった悠仁殿下がどこの中学へ行くかという事も話題になっています。お茶の水へいく、筑波へいく・・いやいや学習院に行くべきなど様々な意見が出ますが、こんなにも学歴に拘るようになった理由は何かという事について考えてみましょう。

125代の天皇の中で有名な人は多々いると思うのですが「頭がよかった」とされる天皇をご存知ですか?

私は知りません。

近代史においてその名を轟かせた明治天皇も別に高校や大学へ行ったわけではないし、その子の大正天皇に至っては、あまりに体が弱かったので学歴より体調優先。

・3歳まで歩けず

・幼稚園に入るもすぐに退園

・小学校も数年遅れて入学

だけど天皇のとしての役割に支障があったわけじゃありません。4人もの男子に恵まれきちんとすべき事をされていますし、近代天皇制において初の「側室を持たなかった天皇」として皇室の近代化をはかった(?)天皇です。

 科挙制度

日本と中韓などの国々との違いは多々ありますが、その一つに「科挙制度」がなかった事があげられます。

「科挙制度」がどのようなものか、わからないという方もいますので、ウィキから拾いますと

隋から清の時代まで官僚登用に1300年もの間、官僚登用に用いられた試験制度

です。

中国では身分によって出世が決まっていたので、その枠を打破するには「科挙」に合格しなくてはいけないという・・庶民にとっては唯一の国家公務員になる道だったわけです。

それが朝鮮半島や琉球でも用いられていたという事です。

科挙は皇帝及び王様が直々に行うものなので、多分その時々の国内情勢によって問題が決められていたのでしょう。

その為の勉強というのは、一言でいうと「丸暗記」です。

そもそも隋も唐も、あの大陸の中で沢山の言語があり、互いに通じ合うのは漢字しかなく、その漢字の意味を知るには、司馬遷の「史記」を参考にしていたらしいのです。

今も中国大陸には30もの言語があって、互いに言葉が通じないと付き合わないという風習があるようです。

子供が文字を覚えるのに使うのは「千字文」で日本でいうなら「いろは」ですかね。

最近、韓ドラ史劇では王様さえハングルで書くんですけど、日韓併合までは漢字を使っていてハングルは下品なものとされていました。

これまた韓ドラや中国ドラマから得た知識でしかないけど、「勉強」=「多くの文書を丸暗記して意味を述べる」事が重要視されていたようです。

こうして文字を書けたり読めたりするのは男性と一部の女性のみで、庶民は文字を読めなくてもいいのでした。

下手に文字を覚えて知識がつくと謀反の恐れがあるからですよね。韓ドラ史劇では両班の奥様ですら文字が読めないというシーンも出てきます。

 

日本は万葉集を見る限り、「万葉仮名」というものが存在し、歌を作る人も皇族から防人まで幅が広いでしょう?

防人や東人などの歌が万葉集には載っていますが、この場合は彼らが文字を書いたというより、詠ませて文字にしたのは官僚だったという事です。文字が書けなくても素敵な歌は詠めるという事でしょうか。

 モノ作り人は迫害された歴史

朝鮮半島などではいわゆる職人が迫害された時代があります。戦に負けると職人の技が盗まれてしまうから先に殺してしまうのです。

でも逃げ切って来た人達が「渡来人」として大和に住んだのでしょうね。

建築も仏像製作も日本において独自の進化を遂げました。

 漢詩・歌に通じることこそ「ご優秀」

万葉集といえば額田王と呼ばれる程有名な女性。彼女は賢いと言われていました。

熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな・・)

でもその優秀さを娘が受け継がなかったからといって、決して「恥」にはならなかったのです。

額田王と大海人皇子との間に生まれた十市皇女は一首も歌を残していません。それが歌を作らなかったのか詠まなかったのか、下手だったのか・・という事はわかりません。
河の上の斎つ岩群に草むさず 常にもがもな 常処女にて ・・十市が伊勢に下る時に吹芡刀自が詠んだもので意味は「川のほとりのあの神聖な岩には苔草も生えていない。あのように常に変わらずありますように。永遠のおとめとして」です。大友皇子の妃として子供を産んでいるけどとにかく清らかなイメージがあったんですね

歌を詠むということは一首の祈りであり、神がかり的なものでもある・・と当時は考えられていた部分もあると思います。

それが平安時代になると技巧的になり「本歌取り」のようなものが出てきます。

かの崇徳上皇も「歌を読むのが上手で華やかな雰囲気を持つ」としてそれが「ご優秀」という事になってます。

(瀬をはやみ・・・はいからさんのおばあさまの若き恋を表現する歌ですがNHKでは父・鳥羽院との中が修復されるようにと詠んだ歌ではないかとナレーションされていました)

一条天皇は漢詩に通じ和歌にも通じ、中宮定子と歌を詠み合って一晩楽しく過ごしていたとか・・とにかく頭を使うゲーム感覚で一般人にはなかなか出来ないお遊びだったようです。

村上天皇の時代には「天徳内裏歌合せ」という和歌の大会が開かれ、夕方から一晩中東西に別れて歌を詠み合い勝ち負けを決め、負けたらお酒を飲む決まりで頑張ったらしい。

勝負をつけるのは歌だけでなく、「州浜」なども選考基準に入ったので、それぞれの美的センスが問われた華やかなものでした。

しのぶれどいろに出でにけりわがこひはものやおもふとひとのとふまで・・木原敏江の「摩利と新吾」の中に「しのぶれど・・」というタイトルの歌があります)

歌を詠むということは、この時代になるといかに技巧をこらし、過去の和歌を知り、物語を知り、文学を知り、そういったものをさりげなく和歌に読み込めるかという技術が必要になります。

頭がよくなければ和歌は詠めなかったんですよね。

特に天皇やその他皇族に求められたものは学問よりも和歌の技術、センス、文字のうまさやそれを書く紙を選ぶセンス・・だったと思います。

 理系は

じゃあ、日本では理系は全く無視されたのかというとそうではなく、陰陽師達がいた部署は天文学に通じた所でした。

朝鮮半島では星を数えることすら中国の許しがなくては出来ないものでしたが、日本ではどんどん学んでいきます。

数学に至っては江戸時代になると農民に至るまでブームになって、誰かがお寺の境内に問題を出すと、それを誰かが解く・・という一種のゲームが流行った程です。

凄まじい科挙制度に頼らずとも、日本では徹底的に極める人は極めるというのがスタンスのようでしたが、かといって天皇や皇族にそれを求める事はありません。

天皇がご優秀とされるのは「和歌」と「生まれた男子の数」ですね。

 

 4月10日は両陛下の結婚記念日

まさに昭和34年4月10日、学歴至上主義の皇太子妃が誕生しました。

彼女の「売り」は聖心女子大学を出ている事。

成績がよかったこと、文章が上手だった事。しつこいくらい「聖心女子大出」の正田美智子さんがどれだけすごいかということを女性週刊誌などがこぞってアピールしました。

通常、「お妃」候補になると学習院にいようが、華族女学校にいようが、ご学問所に入り、特別な教育を受けるので近代においては「卒業した」お妃はあまりいないと思うのですが、なんでか正田美智子さんは「大学出」のアピールがすごかった。

女性の大学進学率が非常に低く、高校も危なくて、中卒で集団就職が当たり前の時代ですから、まるで「男性と肩を並べる新しい時代の女性」として盛り上がったでしょうし、「家柄がなくても学歴があればお妃候補になれる」1号でしたよね。

社長令嬢で西洋館のだんろがある部屋に住んでいて、お手伝いさんつきで美人で大学まで出ているまさに「敗戦国から復興した国の女性の鑑」のような女性だと、当時は思われたでしょう。

大学を出ても家事手伝いで、夏は軽井沢でテニスに興じ、ヨーロッパ旅行まで一人で行って、まるで外交官みたい・・・クリスチャンディオールのドレス、本物の皇族だって持ってない服をこの人は着ている。みたいな。

終戦からわずか14年やそこらで平和ボケしちゃう日本人ってある意味すごいと思いますけど、しっかりと国民は騙されたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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