夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

箱根・姥子温泉、夢と幻(まぼろし)、そして現(うつつ)の出来事は・・。【2009.12.9】 【再掲載】

2010-12-17 09:47:30 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、家内と夕食を頂いている時に、冬の旅行の思いで話をしたりした。
私達夫婦は、共通趣味は国内旅行なので、何かと旅先のこぼれ話、これから訪ねてたい地域のことなどが、
話題になることが多いのである。

昨夜は、たまたま昨年の2008(平成20)年2月中旬に於いて、
家内の母を誘い、箱根の姥子温泉に7泊8日で滞在し、周辺を遊覧したことであった。

旅先で面白いのは、予測もつかない不意な出来事があったり、
思いがけない情景や光景に観られたりする。
或いは地元の方と立ち話をしたり、私と同じような観光客の人たちと話し合ったりすることである。

そしてほんのささやかなことであっても、のちの想い、となり心の片隅に残っている。


こうした箱根の姥子温泉滞在のこぼれ話を家内と話したことが脳裏に残っていたためか、
夜半の夢は、おかしな夢となったのである。

昼のひととき湯めぐりした私は、ある古びた温泉旅館に立ち寄り湯をし、
俳優の山崎努(やまざき・つとむ)さんと全裸で更衣室の片隅の椅子に座りながら、全裸で話し合っていた。
下腹部だけは大き目のタオルをかけて、映画界が何故衰退したか、
このような話題を真摯に語り合ったのである。

この後、遊歩道の根雪の小道を歩いていた私は、前方から歩いてこられる方に息をのみ、
立ちすくんだのである。
そして、このお方が近づいて、互いに煙草を喫いながら、
昭和が終った頃から、小説は世情から確実に衰退した、と途切れ途切れに話し合ったのだった。
このお方は小説家・立原正秋(たちはら・まさあき)氏であるが、
1980(昭和55)年の夏に病死されたお方であるのに、
どうしてなのと思いながらも色々と教示されたのである。

そして脚本家の倉本聡(くらもと・そう)氏が20年ぐらい若い50代となり、
冬の富良野に来なさい。
新幹線で新潟に行き、フェリーで小樽港で下船し、
後はJRで小樽駅から富良野駅まで来れば、私は迎えに行くよ。
そしてプリンスホテルに一週間宿泊し、日中のひととき我が家に来れば、
とこのような話を私は頂ただいたのであるが、私は戸惑いながら、ためらっていたのである。


夢からさめた私は、しばらく呆然としていた。
私は平素から思い込みの激しいひとりで、夢は日常の思いや夢想することが変貌することが多く、
私自身も戸惑うこともあり、どうしてなの、と苦笑することがある。


実体験の冬の箱根・姥子温泉の想いでは、話題にも俎上されないが、
ささやかな旅先の思いを
【 箱根・姥子温泉滞在記【2008.2.12.~2.19.】 】
と題して投稿したことがあるので、あえて再掲載をする。

【・・
   序章 本日から箱根の姥子温泉に7泊8日で滞在

私達夫婦は、独り住まいの家内の母を誘い、
年に数回の温泉滞在をしているが、今回は最も近場の箱根の姥子温泉に、
本日の12日(火)~19日(火)まで滞在する。

箱根には近場であるので、四季折々に数10回も訪れた所であるが、
姥子に宿泊するのは初めてである。

宿泊する観光ホテルは、Web環境なしの素朴な宿と思っているので、
この間はこのサイトに投稿は出来ない上、
携帯電話も使えない私は、ときには昭和の終り頃の環境も良いかしら、と微苦笑している。


   第1章 旅の始まりは、小雨となり

私達夫婦は、12日(火曜日)の7時半に家内の母と
小田急線の新宿駅の特急乗り場の最寄にある喫茶ルームで無事に会った。

このフルーツ・パーラー風の喫茶は、特急を利用する時間調整に大変便利な処で、
何より奥まった一角には喫煙室もあり、私にとっては大変助かる。

私は喫煙室で煙草を喫いながら、コーヒーを飲み、
前方の通勤客で混むプラットホーム、改札口を眺めたりした。

こうした情景を眺めたりしていると、のんびりと平日の朝の時間を過ごせるのは、
改めて私は定年退職後の年金生活のひとりとして実感する。

私達はロマンスカーの座席から馴染みの車窓を眺めていると、
小雨が降りだしてきた。

小田原駅で下り、梅の花を誉(ほ)めようと小田原城のある城址公園に小雨の中に行ったが、
白梅、紅梅が冷たい雨の中で咲いている程度で少し侘しい情景であった。

私は休憩処でビールを呑みながら、
わずかな観光客を眺めたり、小雨の降る寒々しい前方の樹木を見たりした・・。

家内達は暖かいお蕎麦を食べていたが、
早めに宿に行こう、と私は家内に声をかけた。



   第2章  残り雪の中の姥子温泉地

小雨の降り続ける小田原より私達は路線バスで、芦ノ湖の付近にある湖尻行きの向った。

今回の宿泊先は、姥子温泉でも湖尻に近い処を家内が選定したのである。
自動車、レンタカー等を利用しない私達は、各観光地を訪れる際に利便性がある、
という思惑であったのである。

箱根湯元を通過し、小涌谷周辺から周囲の情景は残り雪の景観となっていた。
バスの走る道路は、小雨に濡れ、道路際には除雪の雪が高くあり、
周辺の樹木、山裾は雪景色となっていた。

東京の郊外でも過日の10日の朝は数センチの雪の朝を迎えていたが、
この周辺は20センチ前後が里山に残って折、
浜 美枝・女史に寄る随筆で、箱根は東京より雪が多い、
と読んだことを思い浮かべ、私は心を和(なご)ませてくれた・・。

私達が予約した観光ホテルは、遠方に芦ノ湖が見下ろせるコテージ風の旅館であった。

http://www.jalan.net/jalan/jweb/yado/YADL_348131.HTML
☆ 一の湯 芦ノ湖 ☆

ロビーを通り過ぎると、『公衆電話』のプレートが掲げられた電話ルームがあり、
昭和50年前後に建てられたと思われる格調のある白壁と太い黒柱で、
私は風雅あり、と思ったりした。

角部屋が和室となって折、小ぶりなカラー・テレビがあり、
これからの7泊をこの部屋で過ごすと思いながら、私は大浴場に向かった。

Web環境のない昭和時代に心寄せながら、私は源泉の少し熱い湯船に身体をあずけた・・。



   第3章  芦ノ湖の遊歩道を散策すれば

13日(水曜日)の早朝、ホテルの庭先に下り立つと、
深夜に小雨から雪に変わったので、数センチ程の雪化粧で迎えた。

壁面の温度計はマイナス4度であり、やはり姥子温泉の湖尻付近は、
私の住む東京の郊外の調布市より5度前後は寒い地域と思ったりした。

私は独りで10時過ぎに湖尻まで下って、芦ノ湖の東岸の遊歩道を歩き、
樹木園まで散策を始めた・・。

歩き始めたが、遊歩道は村道のような情景で、日陰の処は少し根雪となり、
陽射しの処は陽だまりとなり、右手に芦ノ湖が望める人影のない遊歩道であった。


私は対岸の西岸の遊歩道を箱根関所から桃源台まで15年前頃歩いたので、
この頃が思い出された。

あの頃の社員旅行は部単位で、30名前後で夕方に現地集合、翌朝に現地解散が多く、
ゴルフ、海釣りなどで盛んに行われ、
私は独りでザックを背負い、晩秋のひひとき西岸の遊歩道を三時間半ばかりで歩いた。

関所付近を30分過ぎた頃、貸しボートでニジマス、ブラックバスの釣り人が数多くいて、
釣りに無知な私は華やかな色合いに驚いたりしていた。

桃源台に到着し、ロープウェイに乗車する為に並んでいた時、
テレビが大リーガーで初めて活躍された野茂投手の姿を放映していた。


私はあんな時代もあったね、と私は想い歩いたりしていたが、
樹木園には30分足らずで到着し、園内を散策したら、多くの人の声が下方から聴こえた。

下り道を少し歩けば、神社が観え、百名前後の人々が参拝をして折、
九頭龍大明神と木札があった。
この後、ゆるい曲がり道を歩くと、白龍神社が観え、湖岸に桟橋があり、10数名が見られた。


私は丘陵に建ち並ぶ貸しバンガローを眺めながら、
樹木園の出入り口の空き地で煙草を喫ったりしていた。

湖尻方面から来たと思われる若い女性のお2人が私に近づいてきた・・。
ひとりは美麗で、もうひとりのお方は10人並みである。

私に樹木園の園内を訊ねられたので、
私は10人並みの女性に向かって、懇切丁寧に説明した。

私は美麗の女性には弱いが、気を引く手立ては、こうした方法が最良と信じているので、
今回の場合も微笑みを絶やさず、10人並みのお方に話したのである。

『小父さま・・ご親切に・・ありがとう・・』
と別れ際に美麗の人は私に言った。

私は内心は小躍りしながら、湖尻に向かった。
そして、あの人、女優さんのどなたかに似ている、と思ったりした。

湖尻の食事処は平日の昼は、本日休業が多く、
あらかじめ目指した店も休みで、やむえず隣接した食事処に入った。
ニジマス、ブラックバス、ワカサギのフライをビールを呑みながら頂き、
先程の美麗の人、若き日の関根恵子さんに似ていた、と余計なことを思ったりした。



   第4章  まぼろしの『秀明館』

14日(木曜日)は私が以前から考えていた姥子温泉に泊まったならば、
夏目漱石が湯治したと知られ、
現在は日帰りの施設として名高い『秀明館』に立ち寄り湯を考えていた。

家内達は箱根園に行くので、
私は独りでゆっくりと『秀明館』で個室休憩しながら、湯に数回は入った後、
姥子から湖尻園地までの遊歩道を下る予定でホテルを出た。

桃源台まで歩いた後、ロープウェイで姥子駅に向かって乗車したが、
下方の周辺は雪が残っている。

姥子駅で下車後、駅員さんに『秀明館』の場所を尋ねたところ、
冬季は休館、と知り、やむえず大涌谷駅まで行き、
大涌谷から姥子を通り、そして湖尻園地までの遊歩道に変更した。

大涌谷駅は観光客で賑わっていた・・。
この周囲からは冬富士が一望できるので、数多くの方達が記念撮影をしていた。

私は駐車場を除雪されている50代の男性に、姥子までの自然歩道の入り口を訊ねた。

『旦那・・雪・・結構・・残っているよ・・
まっすぐに下りれば・・姥子に着くけれど・・だけど・・あんた・・ものづきだねぇ・・』
と私に言った。

私は冬季の防寒フィールド・ジャケット、ゴアテックス入りの堅牢なウォーキング・シューズの容姿を眺めた後、
『気を付けて・・下れば・・』
と言った。

歩き始めると、確かに雪は30センチ前後あり、
歩道の中央には登山靴か冬季専用の長靴の跡がわずかに残っている。

ブナやミズナラの冬木立の樹木林の中を下ったが、
積雪で狭められた歩道は冬の登山路のようである。

私は所々で立ち止まり、首からぶら下げたデジカメで、冬富士の光景を10数枚撮ったりした。

30数分下った後、突然に一般自動車道に出た。
自動車道と下方の湖尻園地までの遊歩道は、わずか50m前後平行するのであるが、
自動車道の除雪で遊歩道が埋もれていた。

やむえず私は、一般道を下りはじめた時、左側に突然に『秀明館』が観えた。
門から玄関庭の途中にロープで路は遮られ、
中央に冬季の2月まで休業とさせて頂きます、
と明示していた。

この後は私は、一般道を少し下った後はペンション、会社の保養施設が多い小道を下り、
芦ノ湖を遠方に見下ろしながら、ゆっくりと下った。

湖尻の食事処で昼食用として、山芋蕎麦を頂きながら、
まぼろしの『秀明館』か、と少しため息をついたりした。



   第5章  旅先の読書

私達夫婦は、独り住まいの家内の母を誘い、温泉滞在旅行を年に数回行ったりしている。

私は定年退職後の年金生活の身であるので、
現役時代の頃は2泊3日前後であったが、時間は自在に使える昨今は、5泊6日前後が多くなっている。

温泉滞在の時、日中は周辺の観光地を訪れても、
家内達のご婦人の興味のある処と、
少なからず男の子の私と興味の差異があるので、私は独りで周遊したりしている。

私たち3人は、朝のひととき、夕食はゆっくりとビール、日本酒を呑みながら話に盛り上がれば、
私は寝具に身も心もゆだねて本を開いたりしている。

或いは雨などで外出が覚束ない時、
日中ののひとときに風呂に入ったりし、その間は読書をしたりしている。

このような状況なので、温泉滞在旅行の場合は、数冊の本を持参している。

今回の箱根の姥子温泉の7泊8日の場合は、
安岡章太郎、阿川弘之、庄野潤三、遠藤周作・各氏の『私の履歴書 第三の新人』(日経ビジネス文庫)、
司馬遼太郎、ドナルド・キーンの両氏に寄る対談『日本人と日本文化』(中公文庫)、
そして40年近く愛読している今月号の総合雑誌の『文藝春秋』の3冊であった。

『私の履歴書 第三の新人』に関しては、
尾崎真理子・著の『現代日本の小説』(ちくまプリマー新書)を購入した際、
同時に買い求めた一冊であった。

『現代日本の小説』に少なからず衝撃を受けたので、
文壇の健全なあの頃の『第三の新人』の頃は・・という思いで読んだりしたのである。

『日本人と日本文化』については、昭和47年(1972年)に発刊された本であったが、
改めて再読したのである。


このように3冊を読破した後、何か本はないか、
と元箱根、湖尻、桃源台で本屋を探したが、観光地せいか残念ながらなかったのである。

芦ノ湖周辺にお住まいの方は、箱根湯元か最悪の場合は小田原市かしら、
と苦笑したのである。

旅の終り、私の住む最寄駅で本屋に入り、
佐野眞一・著の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)を買い求め、
活字文化に飢(う)えた私の心を充たしたりした。



   第6章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ①

15日(金曜日)は箱根の『強羅公園』に行き、
確か20年ぶりぐらいであったと思われる『白雲洞茶苑』を訪れよう、
とホテルを独りで9時半過ぎに出た。

快晴の中、桃源台からロープウェイで大涌谷、早雲山で乗り継いで、
この後は鉄道ケーブルで強羅公園下駅で下車した。

久しぶりに訪ねたので、公園の正門入り口に戸惑い、苦笑したりした。

この時節、観光客も少なく、高台にある喫茶店『Cafe Pic』で、
コーヒーを飲みながら、遠望にある大文字焼で知られる頂上に近い『大』の縁取りを眺めたりしていた。

この喫茶店も客は私独りで、暖かな陽射しの射しこむ中、
モーツァルトの名曲が店内から聴こえ、贅沢なひとときを過ごした。

この後、『白雲洞茶苑』に向かったのであるが、
20年前頃、家内と共に訪れて感銘した茶室であったので、私の心は緊張していた・・。

http://www.hakone-tozan.co.jp/gorapark/tea/index.html
☆ 白雲洞茶苑 ☆

公園の外れにある少し切り立った場所に巨石、樹木で茶庭とし、
そして形式美にとらわれない茶室などがある。

私は1時間ばかり、茶庭を廻りめぐり、茶室を眺めたりした・・。
 
          

   第7章 『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ②

私は東京オリンピックを過ぎた頃、大学を中退し、
映画、文学青年の真似事をしたので和事に関心を持ちはじめた・・。

家内と結婚した当初、家内は中学生から茶事に関して、学んでいたので、
私は何らかの影響を受けていた。

結婚して3年の初め、実家の付近に一戸建てを建てる際、
茶室を設けたが、家内の嗜(たしな)み室であり、私には本格的な茶事は無知である。

ただ掛軸、花入、そして茶道具などの形式美があるすぎるので、
花は野にあるように、と明言された利休の精神は・・と私なりに思いを重ねた。

私は一介のサラリーマンの身であったが、このような心を抱いていた時に、
20年前頃に、偶然に『白雲洞』を家内と観て、感銘をしたのであった。



   第8章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ③

『白雲洞』に関しては、この最初の①でサイト明示したので、解説は省略する。

私が最も関心があるのは、どのような経過で、
明治時代の三井財閥の総督のような益田 孝が造営されたかであった。

明治39年に小田原市の板橋で、
茶人と深められた別名・鈍爺が『白雲洞』、『不染庵』、『対字庵』を造られ、
総称として『掃雲台』として造営された。

その後、箱根登山鉄道に寄る強羅地区の開発に伴い、
多大な援助をしたので、この箱根登山鉄道の社長より、強羅公園の一角を贈呈された。

そして切り立った地に大胆な茶庭を造営した後、
『掃雲台』の茶室などを移築し、今日の基盤である『白雲洞茶苑』となった、
と私なりに思ったしたのである。

このような思いを新たにし、
抹茶を500円で頂けるので、小鐘が置いてあったので、小さく鳴らした・・。



   第9章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば 最終

30代前半と感じられる女性が現れ、
『抹茶を頂くのは・・作法に無知ですが・・』
と私は言いながら、茶席に座った。

そしてこの女性がお点前と館内の案内も兼ねていると判り、
私の前に抹茶と和菓子を置かれた。

『床柱は・・千年前の奈良にあった・・』
とこの女性は言った。

『床柱、掛軸、花入・・などの説明は結構です・・
確固たる美のお判りになった三大の方が伝承され・・
お陰さまでこうして・・
まぎれない美を見せて頂くだけで・・充分です・・』
と私は緊張した表情で言った。

この後、私は素朴な茶室に関して、丁重に感じたことを述べたり、
この三大の伝承した人の美を残された功績をたたえた・・。

そして、こうした美の結晶である茶室を造営するには、
財力は当然とした上、茶の深い思い、
何より縁(えにし)を含めた実行力のあるお方のみが、最低限必要である、
と私は言ったりした。

私は背後から客人の気配を感じ、席を辞する旨を伝えた。

私は和菓子を頂かなかったので、
このお方は和紙に包み、
『貴方様のように・・繊細に美を語(かた)ることの出来る人に・・
お逢いできまして・・』
とこのお方は言った。

私は照れながら、
『私は一介のサラリーマンを定年退職し、
無力な者で・・お恥ずかしい限りです・・』
と私は和菓子を受け取りながら言った。

私は偶然に若い女性と茶事の美について語り合えたので、
心は充たされ、一期一会、という言葉が実感できた・・。

そして強羅駅に向かいながら、
あの人、綺麗な顔立ちで、しぐさも素敵だった、と余計なことを思ったりした。



   第10章  ときには、芦ノ湖遊覧船

16日(土曜日)は昨夜深夜のロビーで読書をしていたので、
風邪気味となり、ホテルの館内、大浴場、露天風呂、そして布団にもぐり、
読書をしたりした。

17日(日曜日)も館内でおとなしくしたりしていたが、
持参した3冊の本は読了してしまう。

18日(月曜日)は独りで湖尻から元箱根まで遊覧船にで往復。

遊覧船の座席から快晴で雲ひとつなく冬富士も明確に観られ、
大阪から来られたご婦人のグループが携帯電話で盛んに撮影されていた。

元箱根の『成川美術館』からの冬富士の景観は一絵のようである。

この後、恩賜公園の高台にある記念館で、抹茶を頂きながら、冬富士を眺めたりした。

冬富士を 眺め愛(め)でれば 静謐(せいひつ)に

冬陽射し 湖上に受け 風光る

芦ノ湖で 冬富士眺め 感無量

このような駄作を詠んでいたが、
観光客の歓声も風邪気味で気落ちしていた私は、心慰められる日中のひとときであった。


   最終章  旅の終りは、箱根の歴史

家内の母と私達夫婦の箱根の姥子温泉に於いて、
7泊8日の最終日、私は改めて箱根の歴史を学ぶ為、箱根湯元にある『箱根町立郷土資料館』に立ち寄った。

家内達は歴史に興味がなく『生命の星・地球博物館』で、地球の生命の営み等を観に行っている・・。

私は人の営みの集積である歴史で、
日本の場合に関しては奈良時代以降の歴史が関心があり、
箱根の徳川時代から昭和の敗戦前までの歴史に興味で入館した。

展示室は『湯治の道』、『箱根八里』、『生活の道』の三大区分で常設されているが、
私は小学生用に『道』と題された補助説明の学習テキストのパンフレットに魅了させられた。

例えば、『湯治』などを拝読すると、
《・・
温泉に入って病気をなおすことです。
そのために長い間、宿にとまってゆっくりと湯に入ります。
箱根の温泉は、このような湯治のために開かれ、使われました。
・・》
このように優しく表示されているので、
さて私の場合は何の病気かしら、と思い浮べ、思わず微苦笑させられたりした。

帰路は高校時代から馴染みの小田急線の特急『ロマンスカー』を利用し、
帰宅した。


このように投稿していたが、つたない身の私なりに、それなりの想いが残っているので、
先程、読み返しながら微苦笑したりしている。



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