山辺は海水浴へ家族とともに出かけていた。小学2年になった友輝と幼稚園年長組の美久、それに、妻の千沙の四人である。毛皮(けがわ)海水浴場は名の通り、毛皮のような、かなりぶ厚い松並木に被(おお)われた浜辺で、大自然を満喫(まんきつ)することが出来た。ごった返す市場の人混みのような砂浜の一角にビーチパラソルを広げ、山辺一家は日陰の中にいた。
「パパ、泳いでくるねっ!」
「待てよ、俺達も泳ぐ…」
家族四人は、浜辺へ出た。潮の香りがする風が時折り吹き、日射しはきついが水に濡れると心地よかった。というのは真っ赤な偽(いつわ)りで、炎天下で熱せられた海水は、湾岸内では流れも弱く、ぬるま湯に近かった。それでも、しばらく遠浅の海で戯(たわむ)れ、山辺と千沙はビーチパラソルへ戻(もど)った。友輝と美久はもう少し遊ぶからと浜辺に残った。
異変が起きたのは、その20分ほど後だった。
{パパ大変だっ! 美久が…」
友輝の言葉と同時に山辺は新幹線のようにビーチパラソルを飛び出ていた。山辺の目に見えたもの、それは溺れかけてバタつく我が子だった。山辺は狂ったように海へ入っていた。だが、美久から今一歩のところで、美久は波間に消えた。山辺は海中へと潜(もぐ)っていた。
気づいたとき、山辺は寂々(じゃくじゃく)としたどこともつかぬ所にいた。ところどころに、灯(あか)りがチラチラと見えた。前方に蒼白い顔をした老婆が一人、こちらを眺(なが)めている。山辺は近づくと、その老婆に訊(たず)ねていた。
「あのう…ここは、どこでしょう?」
「ふふふ…ここは、あの世の渡し口さ」
「あなたは?」
「わたしかい? わたしゃ娑婆(しゃば)で有名な[しょうづか美人]だわい」
「しょうづかの婆さんですか?」
「誰が婆さんじゃ! …まあ、いいがのう」
俺は海で死んだのか…と山辺はこの瞬間、思った。
「あの、美久といううちの子は来なかったでしょうか?」
「おお、そういや、さっきな。そんな子が来たのう」
「そうでしたか…」
やはり駄目だったか…と山辺は自分のことも忘れ、ガックリと肩を落とした。
「いや、賽(さい)の河原へ来たには来たが、すぐ戻ったぞ。お前さんが来たときな」
「えっ!」
「なにも驚くことはなかろう。死なずに生きたんじゃから喜びなされ。どうだい、お前さんも?」
しょうづかの婆さんは、ニタリと笑った。それと同時に、山辺の意識は途絶えた。
気づくと山辺はビーチパラソルの中で横たわっていた。
「そろそろ帰らない?」
見上げると、しょうづかの婆さんではなく、千沙の顔があった。肩を揺(ゆ)すられ、目覚めたようだった。
「俺、死んだはずだろ?」
「誰が?」
千沙が訝(いぶか)しげに山辺の顔を見たとき、友輝と美久が砂浜から戯れながら戻ってきた。
「これ…拾(ひろ)ったの!」
美久が楽しそうに手に握ったものを山辺へ手渡そうとした。山辺が受け取って見ると、それは貝殻ではなく、一枚の一文銭だった。山辺は、確かに死んだ…と思った。
完