水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

怪奇ユーモア百選 19] 濡れ仙人

2016年03月25日 00時00分00秒 | #小説

 
 今から何年か前の暑い夏の話である。私は村伝いの帰り道を歩いていた。辺(あた)りは鬱蒼(うっそう)と茂る樹林帯である。蝉しぐれが喧(やかま)しいほど耳に聞こえた。身体を冷(ひ)やさず家を出たのが災(わざわ)いしてか、汗びっしょりだった。当然、タオルと水が入ったペットボトルは持参していたが、すでにタオルはビショビショで、水は半分以上、減っていた。まあ、愚痴を言っても仕方がない…と、私は無言で歩き続けていた。そして、少し休もうと歩みを止め、道伝いにあった窪地(くぼち)の草の上へ腰を下ろした。そのときだった。
『あの、もうし…』
 遠慮ぎみに私へ語りかける誰かの小声がした。私は、誰だろう? と辺(あた)りを見回した。だが、誰の姿もなく、私は気のせいだろう…と腰を上げた。そして、数歩歩きだしたときだった。
『あの…もうし…』
 今度は、やや大きめの声が私の耳にはっきりと聞こえた。声は私の背後でしているようだった。振り向くと、数m先の道に、一人の白衣(しろぎぬ)の着物を纏(まと)った仙人風の老人が、びっしょりと濡れそぼり、杖をついて立っていた。
「はい…なにか?」
 私は恐る恐る返事をしていた。
『申し訳なき話じゃが、なにか着がえは持っておられぬかのう?』
「いえ…あいにく」
 私は無意識でそう返していた。
『さようか…ならば仕方がない。手間をかけ申した。お行きめされよ』
 冷たく響くその声は、この世の者とは思えず、私は軽くその老人に一礼すると、そそくさとその場を立ち去った。十数歩歩いたところで、私にこの老人は? という妙な好奇心が起こり、ふたたび振り向いていた。そのとき、老人の姿は忽然(こつぜん)と消えていた。今までこんな出来事に遭遇(そうぐう)したことがなかったから、私は平常心を失ってしまった。気味悪くなり、早足で五分ばかり歩いた。そして、ようやく樹林帯を抜けようとしたとき、先ほどの老人が今度は前方に立っているのが見えた。私は思わずギクッ! と驚いた。私より先回りした老人・・まさに仙人だっ! と私は瞬間、思った。というのも、樹林帯の一本道に脇道はなく、私の前へ出られることは、まず不可能だったからである。私は震(ふる)えながらも歩を止めず、少しずつ老人へと近づいていった。そして、目と鼻の先まで近づいたとき、老人の冷たく響く声が、ふたたびした。
『このお近くの方ならば、ご自宅にお寄りしてもよろしゅうござろうか?』
「えっ? あ、はい…」
 確かに私の家は樹林帯を抜け出ると、すぐそこにあった。断る理由が見つからなかった。私は思わず頷(うなず)いていた。私が歩き始めると、老人は消えることなくついてきた。
 後(のち)になって分かったことだが、その老人は、やはり仙人だった。だが、仙人というには余りにドジという他はない粗忽(そこつ)な仙人だった。雲間(くもま)から足を滑(すべ)らせ、樹林帯にある池へ落ちたのだと言った。濡れ衣(ぎぬ)は移動が自在に出来ても、天上には戻(もど)れないのだと、私は仙人から初めて聞かされた。人の世界は濡れ衣を着て苦労する者が多いんですよと言うと、濡れ仙人は、『ほほほ…そうじゃろう』と笑った。そんな嘘(うそ)のような本当の話が、今から何年か前の暑い夏にあった。

                  完


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