私が友人から聞いたこの話は、かなり前の話らしい。
今ではもう見られなくなった市電が走っていたある日のこと、友人はいつものように駅の改札を出ると帰路を急いでいた。駅から家までは徒歩で約10分ほどかかるそうだが、運動もかねて、自転車は使っていなかったそうだ。いつもの通勤路には地蔵尊が祀(まつ)られた小さな祠(ほこら)があったらしい。友人は行きと帰りには必ず一度、止まり、手を合わせていたという。別に宗教心からそうしていたとは言っていなかったが、やはり素通りするのは気が引け、そうしたのだという。それが重なると、人間とは妙なもので習慣になったそうだ。そうしないと、なにか悪いことが起こるんじゃないか…とかの気持になったという。
そんなある日のこと、地蔵尊の前へ来た友人は、いつものように手を合わせ、ふと地蔵尊を見た。夕方のことで、外はまだ明るかったそうだが、いつもと祠の様子がどこか違うことに友人は気づいた。今朝まではそうじゃなかった…とは分かるのだが、どこが違うのかが分からず、立ち止ったまま友人はじぃ~っと、祠を観察したそうだ。別に急いでいなかったということもあったらしい。で、しばらく観察していたが、やはり分からず、友人は歩き出そうとした。そのとき、友人はハッ! と気づいた。地蔵尊の赤い前掛けが消えていたのである。友人は、あっ! と気づいた。誰かが汚れているのを見かねて、洗濯でもしようと持ち帰ったんだろう…と思った訳だ。消える訳がない…と思ったともいう。
家の前まで帰ってきたとき、友人は驚いた。玄関前に地蔵尊の赤い前掛けが落ちていたそうだ。友人はゾォ~っとして、怖(こわ)くなったそうだ。
ここでひとつ言っておかねばならない。友人は若い頃から毛が薄く、この頃にはすでに頭髪は完全に抜け落ち、禿(は)げていた。
友人は玄関に落ちていた赤い前掛けを洗って乾かし、朝、持って出た。
そして、地蔵尊の首に着(つ)け、いつものように手を合わせて駅へ向かったそうだ。その日から異変が起こり始めた。友人の禿げた頭に毛が少しずつ生(は)え始めたのである。そして、その毛は若い頃のようにフサフサにまで戻(もど)ったという。確かに私もそのことは認めざるを得ない。友人の過去の禿げた頭はよく知っていたし、今のフサフサ頭も知っている私だからだ。友人は、この有り難さで、地蔵尊を毛生(けは)え地蔵と呼び、崇(あが)めるようになったという。
ただ、ただ…これだけは思いたくないのだが、?%かの鬘(かつら)の可能性も拭(ぬぐ)えないのだ。しかし私はこの怪奇な毛生え地蔵の話を信じ、友人を疑いたくはない。そんな訳で、最近は友人の頭は見ないようにし、空ばかり見ながら話をしている。
完