とある田舎(いなか)に千鳥(ちどり)ヶ淵(ふち)という小さな淵があった。聞くところによれば、名の謂(いわ)れは、千鳥が住む綺麗な景観にあるという。そしてこれも、聞いた話だが、この淵にはあるときまで奇妙な凶事が起きたそうである。その聞いた話の詳細をこれから話したいと思うが、聞きたくなければ、昼寝でもするか、一杯、飲んでグゥ~スカと寝ていてもらいたい。
昔(むかし)々のことだという。どれくらい昔なのか、そこまでは聞いていない。
この近くの村に住む与助という百姓が千鳥ヶ淵の中の道を通りかかった。陽も西山へと傾き、辺(あた)りには夕闇が迫っていた。与助は少し離れた飛び地の田を耕(たがや)した帰り道で、いつものように道を急いでいた。すると、この日に限り、いっこうに足が前へと進まない。歩いているのだから、千鳥ヶ淵を通り過ぎ、いつもの村道へ出ている頃合いなのだ。それが、歩けど歩けど、与助は千鳥ヶ淵から一歩も遠退(とおの)いていなかったのである。
与助は少し慌(あわ)て、鋤(すき)を背に駆けだしていた。だが、やはり元来た千鳥ヶ淵の入口へと戻(もど)るのだった。与助はもののけにでも誑(たぶら)かされたか…と考え、足を止めた。そのときだった。千鳥ヶ淵の水面(みなも)がさざめき、声がしたそうな。
『わしは、この淵に住まう道祖神じゃ~。ここしばらく前よりこの淵を荒らす村人がおる。わしを祀(まつ)る石碑を建てればよし、さもなくば、村にこれまで以上の祟(たた)りがあろうぞ~』
声が途絶えると水面のさざめきは消えた。与助は怖(こわ)さの余り腰が抜け、地面に座りこんでいた。それでもしばらくして、ようやく腰を上げると、ほうほうの態(てい)で歩き始めた。すると、今まで抜け出られなかった千鳥ヶ淵から存外早く村道へと出られたのである。
家へ辿(たど)りついた与助は、このことを百姓代に伝えた。与助が言うとおり、確かに村にはここ最近、凶事が続いていた。百姓代は次の日、村の百姓達から関連した目ぼしい話を訊(たず)ね回った。すると、一軒の百姓が千鳥ヶ淵で夜な夜な魚を獲っているという事実が判明した。百姓代はその男を叱(しか)りつけ、二度と淵で魚を獲らないよう命じるとともに道祖神の石碑を建てる人夫(にんぷ)頭(がしら)を言いつけた。
その後、道祖神の石碑が立ってからというもの、村の凶事は嘘(うそ)のように消え去った。
そんなある日、与助がいつものように千鳥ヶ淵を通りかかると、白髪の老人がなにやら釣っている姿が目に映(うつ)った。
「あの、もし…」
与助はその老人に近づくと、恐る恐る声をかけた。
『おお、いつかの…。わしも腹が減ってのう』
神さまも腹が減るのかい?! と、与助は疑問に思ったが、怖さが先に立ち、思うに留(とど)めたそうな。
完