事件らしき事件がないと奉行所も妙なもので緩(ゆる)くなる。この日も兵馬や堀田主税は小欠伸(こあくび)をしながら勤めが終わる刻限[申の刻=午後四時]を待っていた。
「どうだっ!? 久しぶりに一献(いっこん)傾けぬか?」
「そうだな…。長らく飲んでおらぬからのう。よかろう!」
主税に誘われた兵馬だったが、取り分けて断る用向きもなく、軽く応諾した。脳裏に蔦屋の味噌田楽が浮かんだ・・ということもある。
「店は…」
「蔦屋でも構わぬかっ!?」
「ああ、飲めれば、どこでも構わんっ!」
申の刻となり、二人が奉行所の門を抜け、蔦屋へ向かおうとしばらく歩き出したときである。天秤棒を担(かつ)いでいない魚屋の喜助が待っていたかのように土塀の片隅で兵馬を呼び止めた。
「どうした、喜助? 又、何ぞ起こったか!?」
「起こったといいますかねぇ…こちらはっ?」
「ああ、同じ勤めの同僚、堀田だっ!」
「拙者、堀田主税と申す。お気遣い召されるなっ!」
「月影さまにお世話になっております魚屋の喜助と申します」
「どうだ喜助! これから蔦屋へ出向くのだが、よければお前も付き合わぬか!?」
「へい、ようがすっ!」
三人は蔦屋へと向かった。
蔦屋の店内である。
「ここんとこ、立て続けに三人、呪詛で…」
「お前が申すのも、それはそれで分からぬではないが、呪詛(じゅそ)で死んだという確証もなかろう…」
「ただの祈祷師、ということもありますからな…」
喜助と兵馬が話す中へ、堀田が猪口を啜(すす)りながら話へ割り込んだ。
「名はなんと申す?」
兵馬が味噌田楽を齧(かじ)りながら猪口(ちょこ)を手にする。
「最近、雀長屋へ住みつきました、祈祷師の了厳(りょうげん)です。言っちゃなんですが、あっしもどうも胡散臭(うさんくさ)い…と睨(にら)んでるんですがねっ!」
「祈祷師の了厳か…。そやつが呪詛をっ!?」
「いや、まだ確証は、ねえって与蔵が言ってました。まあ、死んだのは悪徳の噂(うわさ)高いお上のお偉方(えらがた)ばかりですから、どうでもいいと言やぁ~いい話なんですがねっ!」
「義賊的ですなっ!」
「ははは…さしずめ、義賊、了厳・・ってとこか…」
その半月後、幕府の重職がことごとく世を去ると、どうした訳かピタリと呪詛による死者が途絶えたのである。これと時を同じくして、雀長屋へ住みついた祈祷師、了厳の姿は忽然と消え失せた。雀長屋の住人は、了厳を神様に違いないと、しばらく噂(うわさ)をし続けたという。
完