若いときはそうでもなかったものが、年老いてくると時折り、物を紛失したりする。自分で紛失しよう! と考える人はない。^^ だが、この事態は戴(いただ)けない。^^ 長年使っていた物なら、取り分け落ち込むことになる。心が疲れる訳だ。^^ 私もつい最近、何かの機会に貰(もら)ったプラスチック製の安いボールペンを病院で紛失してしまった。(9)にその題材をベースにお話を書かせてもらったのだが、安かろうと長年使っていれば愛着も湧(わ)き、実に辛(つら)いものだ。貰った安いボールペンは何本もある。あるにはあるが、失(な)くせば辛いことに変わりはない。今は少し気分も癒(い)えたが、まだ心のどこかに悲しい気分が残っている。まあ、ポケットに挿(さ)す根元の折れた部分とかを何度も修理したものだから、破棄(はき)する人もあるに違いない物だったのだが…。前書きが長くなったが、今日は、その(9)をさらに掘り下げた紛失のお話である。^^
とある独居老人の家である。朝から残りもので食事を済ませた老人が新聞を読もうと、歯を楊枝(ようじ)でシーハーシーハーさせながら緑茶を啜(すす)り、眼鏡(メガネ)ケースを開けた。だが、肝心の眼鏡がない。
「んっ!?」
老人は、妙だ…? と刹那(せつな)思った。それからというもの、老人の失踪(しっそう)者ならぬ失踪物捜査の格闘が始まった。小一時間が経(た)ち、やがて昼も少し回った。
「まっ! 食ってからだ…」
老人は一端、見切りをつけ、昼食にしよう…とキッチンで好物の素麺(そうめん)を湯がき始めた。用意した出汁(だし)に摺(す)り下ろした山葵(わさび)をいれ、それを啜(すす)りながら炒(いた)めた特上肉を摘(つ)まむ・・というものだ。これが老人の最も好きな昼どきのパターンだった。
さて、その食事も満足げに済ませた老人は、ふたたび紛失した眼鏡の捜索を始めた。始めたが、出てこないものは出てこない。そして無意味な数時間が過ぎ、とうとう黄昏(たそがれ)どきとなった。
「まっ! 食ってからだ…」
老人はふたたび見切りをつけ、夕食にしよう…とキッチンで好物の鯥(むつ)[メロ]の味噌漬けを焼き始めた。
「これが美味(うま)いんだ、これがっ!」
老人は紛失した眼鏡のことなど忘れたかのように独りごちた。
あったか~~い炊きたてのご飯で味噌漬けを頬張り、満足げに夕食を済ませた老人は、食器を洗い終わると、欠伸(あくび)を一つして呟(つぶや)いた。
「さて! ひとっ風呂(ぷろ)、浴(あ)びるかっ!」
紛失を忘れたかのように浴室に向かった老人は、自動タイマーで張った湯舟の湯を確認したあと、脱衣場で脱衣し始めた。上着を脱ぎ、下着を首から脱ごうとしたとき、頭部に異物を感じた。眼鏡だった。紛失ではなく、ズゥ~~~っと身に着けていたのである。
こんな紛失と呼べない紛失もあるにはある。こんなゆとり気分なら、疲れることもないだろう。^^
完