「あのう…もし。これ、忘れ物ですよ」
鳥山住夫は電車を降りようとして隣の座席の男に呼び止められた。男が手にしていたのは鞄(かばん)だった。住夫が男との境に置いた鞄をうっかり忘れていたのには、それなりの理由があった。結果、住夫は呆然(ぼうぜん)として、鞄を持って乗ったことすら忘れていたのだった。住夫はギクッ! と驚いたように振り返った。
「あっ! どうも…」
軽い会釈で鞄を受け取ると、住夫は乗降扉の方へ歩いた。こんなヘマやっちまって、なにやってんだ、俺は…と、自分自身が腹立たしかった。
小一時間前、ちょっとした手違いで課長の丸岡から、こっぴどく叱責(しっせき)され、住夫はすっかりテンションを下げていた。
「駄目じゃないか! 鳥山君! 我々は公僕なんだぞ。間違えました・・では済まないんだ! 幸い、先方さんが気づいてくれたからよかったものの、そのままだったら訓告以上だぞ! …まあ私がいるから、そこまではいかないだろうがな」
丸岡は自分を少し高く見積もり、偉ぶった。住夫が意気消沈して席に戻ったとき、定刻のチャイムが鳴り、気落ちしながら役所を出た。駅へと歩く道すがら、失敗の原因を辿(たど)ったが、どうしても分からないまま電車へ飛び乗っていた。そして、なお想いに耽(ふけ)って鞄を忘れた…ということだ。
駅の前に小さなラーメン屋台があった。住夫は常連で、いつも決まりのニンニク入り葱(ねぎ)ラーメンを注文し、冬なら熱燗をコップ一杯、以外は小瓶のビール一本と決めていた。屋台の親父も馴れたもんで、住夫を見ると、注文を聞かずに準備を始めて、出した。
「今日は元気がありませんね、鳥山さん」
住夫が座った途端、慰めるような眼差(まなざ)しで優(やさ)しく親父が声をかけた。
「ああ…つまらんことで、怒られちまったんだ。ははは…、今日はどうかしてるよ、俺」
住夫は笑って返した。そのとき、小さな声がした。
『明日(あした)から、逆のいいこと、ありますよ、住夫さん』
住夫は辺りを見回した。客は自分一人で、親父以外、誰もいない。
「親父さん、今、なにかいったか?」
「へえっ? いや、ぺつに…」
親父は鉢の麺に具を添えながら、顔を上げていった。
「そうか…。気のせいか」
『気のせいなんかじゃありませんよ、住夫さん』
ふたたび、住夫の耳に、はっきりと声が聞こえた。
「誰だ!」
住夫は思わず立って叫んでいた。
「鳥山さん、大丈夫ですか?」
心配そうな顔で親父が住夫を見た。
「ははは…、どうも。俺、疲れてんだな、きっと」
バツわるく、住夫は座りながら声を小さくした。その後はなにもなく、残ったコップのビールを飲み干すと住夫は屋台を出た。
「また、どうぞ…」
置かれたお愛想を手にして、親父は決まり文句をひとつ吐いた。住夫は心地よく歩いて家路を急いだ。今日のことは忘れよう・・と思った。そのとき、また声がした。
『場所がらも考えず、先ほどは失礼しました。いったことは本当です。明日になれば分かりますよ』
「誰だ!!」
住夫は立ちどまり、辺(あた)りを見回した。だが、だれもいない。漫(そぞ)ろ歩く通行人が驚いて、振り返った。
「いや! 別に、なにもありません」
住夫は笑って誤魔化し、また歩き始めた。
『私は、あなたが持つ鞄です。この前は修理して下さって有難うございました。では…』
住夫は、また立ち止って、手に持つ鞄を見た。捨てようとしたが思いとどまり、昨日、修理した鞄だった。
次の日、辞令が出た。住夫は課長補佐に昇格していた。
「ははは…、おめでとう。昨日のことは忘れてくれたまえ鳥山君。君も管理職だ、よろしく頼むよ」
うって変わった態度で、丸岡がいった。
THE END