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このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

生命の大樹

2018年06月14日 | 人生

人間の存在は、ミクロの目、小さな目で見たら、それぞれ独立しているように見えるかもしれませんが、マクロの目、巨視的な目で見たとき、そこのあるものは巨大な一本の大木なのです。巨大な一本の大木があって、そこから無数の根が出ているのです。

 

大きな根が出、その根からまた小さな根が出、小さな根からまた血管のごとき細い根が出ている――このように岐れ出ているのが、じつは人間の魂の真実なのです。

 

みなさんは、このなかの最後のほうの、小さな毛ほどの根っこの一本なのです。そういう毛ほどの根っこの一本が、もし、「自分だけに養分がくればよい」と思ったとしたら、あるいは、もし、「自分のところにだけ水分があればよい」と思ったとしたら、どうなるでしょうか。

 

その巨大な大木は、やがて枯れていくでしょう。巨大な大木が枯れて、一本の根だけが生き残ることがあると思いますか。そのようなことはないのです。他の多くの根が水を吸い、養分を吸ってこそ、大木はますます大きくなり、そのなかの一部である自分は、ますます、その使命感に燃え、そして力を感じ、喜びを感じるようになってくるのです。

 

ですから、自己完成を考えるときに、どうかいま述べたたとえを思い出していただきたいのです。

 

全人類の魂は、あるいは人類だけでなく、動物、植物をも含めた魂は、大宇宙的な視点から見たときに、巨大な一本の大木であるということを忘れてはならないということなのです。すべての生命は、三次元的な目によって見るならば、バラバラのように見えます。一本一本の根が違うように、一枚一枚の葉っぱが別のように、違って見えますが、より巨大な目で見たら、霊的な目で見たら、一本の巨大な樹木そのものであるということなのです。

 

人間がもし根っこだとするならば、植物たちは葉っぱかもしれません。動物たちはその果実かもしれません。あるいは、その樹の皮の一枚一枚かもしれません。そのように、いろいろな部分をつくっています。

 

しかし、大宇宙に存在するすべての生命体は、大きな一本の生命の樹を生かすために存在しているのだ、ということを忘れてはなりません。水を吸い、養分を吸い、生長し、あるときは蒸散をし、あるときは光合成、炭酸同化をし、いろいろなことをしながら、その樹自体は生長しているのです。

 

その生長の過程において、葉っぱが枯れて落ちることもあります。その実が虫に食われて、駄目になることもあります。その幹に傷がつくこともあります。鳥が巣をつくることもあります。根の一部が切れたり、枯れたりすることもあるでしょう。いろいろなことがあります。

 

こうした事実が、私たちが見ていて、この世の中がうまくいっていないように見える部分、不都合に見える部分です。しかし、そういう部分があっても、全体として生きつづけようとしていることを忘れてはなりません。

 

---owari---

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