(「肯定的なイメージを発信しよう」と努力する)以前にもお話をしていますが、「常に肯定(こうてい)的イメージを発信しよう」ということが大事です。口を開(ひら)けば、否定的なことや暗いことを言い、不幸の予言者のように、「自分は悪くなるのではないか」「会社が悪くなるのではないか」「世間が悪くなるのではないか」などということを常に言う人は、だんだん友達が減っていきます。仲間が減っていき、話を聴(き)いてく . . . 本文を読む
以前に、「三方ヶ原の戦い」と「伊賀越え」を取り上げ、徳川家康の派手な負けっぷりについて述べた。実はもう一つ、家康には心胆を寒からしめる危機があった。それが、戦国期最後の合戦「大坂夏の陣」における真田幸村の奮戦だ。「大坂夏の陣」は、1615年5月に起こった。家康は翌年75歳で亡くなっており、前年11月の「大坂冬の陣」から間をおかなかったのは、自らの死を予感していたからとされている。家康は徳川幕府を盤 . . . 本文を読む
天下を手中にした徳川家康にも天敵と呼べる苦手が存在した。信州上田城主の真田昌幸(まさゆき)・幸村(ゆきむら)親子である。家康は真田親子のために三度も苦杯をなめさせられている。家康の生涯で、これほど戦で何度も苦しめられた相手は存在しない。家康にとって真田親子は、まさに目の上のたんこぶであった。家康と真田親子の最初の激突は1585年8月。領地問題のこじれから、家康は七千の兵を上田城攻略のために派遣した . . . 本文を読む
源義経が活躍した四度の合戦のうち、ハイライトと言えるのが「屋島の合戦」である。「一ノ谷の合戦」からちょうど一年後の1185年2月に起きている。平家軍は一ノ谷で破れはしたものの、屋島(香川県高松市)に布陣し、周辺の水軍を掌握して巻き返しを狙っていた。そこへ天敵とも言うべき義経が再び現れ、その野望を打ち砕くのである。2月17日、義経一行百五十騎は熊野水軍船に乗り、現在の大阪湾から阿波へ向かって出帆(し . . . 本文を読む
源氏と平家が戦った源平合戦のヒーローと言えば、ご存じ源義経(みなもとのよしつね)。数々の逸話と武勇伝に彩られた義経は、日本合戦史上最大の英雄と言ってもよいでしょう。作家の司馬遼太郎氏も「義経は日本史上ただ一人の、もしくは世界史上数人しかいない騎兵の運用者だった」と高い評価を与えている。義経が兄頼朝(よりとも)の命を受け合戦したのは全部で四回。最初の「宇治川の合戦」では同族の木曽義仲(よしなか)を破 . . . 本文を読む