年末に、執行草舟さんのオフィスで、ちょっと論語の話に。
執行草舟さんは、論語を「当たり前のことしか書いていない」っておっしゃっていた。
そのとおり。
でもそこから私は以下2点を導きたい。
1 当たり前のことすら、できていない?
最近わかってきたことですが、知的階層の方でも、ほとんど論語を読まれていない。
学生時代から『致知』を定期購読して、大学時代に安岡正篤記念館 埼玉のここ に1人で行った私からすると、人さまの論語知らずっぷりにはちょっとビックリしている。
例えば、論語の 自責七訓 こちら 。みなさん、ここで説かれているとおり、しっかり自責されているんだろうか。そうは思えない、、、
執行草舟さんが「当たり前のこと」って表現すら、日本人は到達し得てない?
2 当たり前だから、キリスト教ほど広まらなかった?
キリスト教と比較すると、論語はmoderate。普通。平凡。当たり前。
エキセントリックなことを言わない。人をビビらせることを言わない。
己の欲せざる所を人に施すなかれ、って消極的な感じ。
聖書は隣人を自分のごとくに愛せ、って積極的な感じ。
親もなにもかも全てを捨てて私に付いてきなさいってのが聖書・イエス。。。
ルカ14:26
「もしだれでもわたしのもとに来て、父母、妻、子供、兄弟、姉妹、さらには自分の命さえも憎まないならば、わたしの弟子にはなれません。」
“If anyone comes to me and does not hate father and mother, wife and children, brothers and sisters—yes, even their own life—such a person cannot be my disciple.
これっすごいエキセントリックですね。今風に言うとカルト、、、
こういう、カルト的なことを何も言わないのが聖書。孔子は何一つ奇跡を起こさない。
このように、「孔子に超人的なところがなかった」から、訴求力を持ち得ず、宗教的熱狂を生むことができなかった。だからキリスト教ほど広まっていない。
そういえるのかもしれない。