まだ道聴塗説(しったかぶり)ですが、ラインホールド・ニーバーがimpossible possibility (不可能な可能性)ってのを唱えている。
よさげ。
達成不可能なんだけど、そこに可能性を見出す。
絶対に未完な目標に向けて、それでも可能性に掛ける。
一生かけても到達できない崇高な目標に向かって、走り続ける。
不可能だと分かっている壮大な志に向けて、ドン・キホーテのようにチャンジし続ける。
仔細は未調査ですが、そんな意味がありそうだ。
以下はあるサイト キリスト教大磯教会 からの取り急ぎ抜粋。
~~~以下引用~~~
impossible possibilityは次のことを意味する。
歴史においてわれわれのアガペーを達成しようとする努力は、すべて「近似値の領域に止まる」宿命にある。
「理想はその完全なるかたちにおいては人間性の能力を越えるものである。」
その意味においてアガペーは不可能である。
しかし、アガペーは人間の歴史における善の可能性の限界を指摘すると同時に、今まで以上により生産的、創造的、善的なものに近づこうとする意欲と熱意を喚起する。
人間はこれで十分であると思う時自己充足的傲慢に陥るが、自己の可能性をたえず超越する力に目を向けるとき、自己満足的、現状維持的態度から解放され、より大きな可能性に向かって自己変革することができるようになる。
その意味でアガペーは可能性である。
アガペーの弱さは同時に強さであるという逆説がここに成立する。
「神の弱さは人間よりも強い」のである。
すなわち、impossible possibilityとしてのアガペーは、信仰を持つ者にとって、絶望が絶望に終わらずに、神の赦しによって悔い改めへと昇華され、現実の真只中で生き生きと生きることを可能にする力なのだ、とニーバーは言うのである。