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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

最後の民の召命と使命 第5回

2018年01月29日 | 日記

02 キリストの受肉と私たち

 

イエス・キリストの再臨が目前に迫っている今、次々と成就されていく最後の預言についての研究ではなく、「2千年前にこの地に来られたキリストの受肉についての研究」は時代状況に合わないのではないか、という疑問が起きるかもしれません。そうです。米国と教皇権の行動や新世界秩序主義者たちの動きをはっきり認識し、最後の時代の準備をする研究ではなく、なぜ、「キリストの受肉」なのでしょうか。あまりにも生真面目なテーマと思われるかもしれません。

しかし、この研究はこの最後の時代に必ず理解されなければならず、また、伝えなければならないとても重要な真理なのです。受肉についての研究は、終末の事件である後の雨、黙示録18章の第四天使のメッセージ、完全、信仰による義、三天使の使命などと切り離すことのできない関係があるだけでなく、これらのすべてのテーマの核心であることをこの研究を通して確認することになります。

私たちが現在信じているキリスト教の教理の基礎である聖書は、66冊が正典(Canon)として定着するまで、数世紀にわたって論争と弁証、研究と会議を経て、今に至るようになりました。そこでは、特に「神様」と「神性」についての理解、つまり父なる神様、キリスト、聖霊の神格と個性、その本質と存在に対する見解が、多くの異端を産んだ代表的な主題でした。

本格的なキリスト論の論争は4世紀にアリウスの出現で始まりました。 彼はイエスが神様の子であるため、生まれる前には存在しなかったと言いました。つまり、すべての被造物より先に存在していたとしても、被造物であり、神様ではないと主張しました。これに対してコンスタンティヌス皇帝(274-337)が開催したニケア公会議(325年)で、神様の子であるイエス様は、父なる神様と本質が同一であると主張したアタナシウスの見解を採択し、アリウス派を異端と定めました。しかし、イエス様の神性に対する論争は簡単にはおさまらず、東ローマのテオドシウス皇帝(346-395)によってアリウス論争を終結するために、 381年アンティオキアで公会議を開くことになりました。この会議で、父である神様と子であるイエス・キリストは同一本質(Homoousios、ホモウシオス)であるというニケア宗教会議の決定を再確認し、聖霊についても、その本質は神様であり、聖霊の個性を認め、聖霊は父と子とともに、礼拝を受けるというニケア・コンスタンティノポリス信条が確立されました。

アタナシウスの父と御子が同一の神様であるという同一本質論はキリスト教の救いの教理を確立させ、神様を礼拝する原則を提示し、キリスト教の土台を立てたと評価されています。しかし、このホモウシオスという単語の中には、キリストが父から派生(generation)されたというオリゲネスのギリシャ哲学的な概念があったため、すべての人から歓迎されたのではありませんでした。

とにかくこのような過程を通して「イエス・キリストは神様である」という真理に到達した頃、もう一つの問題が発生することになりました。それは「キリストが神様なら彼の本性は人間なのか神なのか」という問題です。その方が神様なら本性は神様でなければならず、人間なら本性は人間でなければならないのではないか、「人として来られたイエスは一体何者か」という質問が自然に生じました。 


最後の民の召命と使命 第4回

2018年01月28日 | 日記

私の経験では、真理を悟ることができないようにする最も大きな壁は、偏見と誤解です。従って、謙遜な心で救いの計画を調べられることを願います。

本書を通して真理に対する単なる知的な同意、または教理や神学の中の神様ではなく、人を救って下さる神様の力を実際に体験されることを願います。私たちと共におられる神様のお助けによってキリストの十字架を正しく見るようになり、聖霊の導きによって福音の真実を体験されることを、お祈りいたします。

私たちがイエス様に似たものとさせられるのは、"受肉されたキリスト"の愛を眺めてそこに深い感銘を受けることによるのです。

 イエス・キリストの再臨が近づきました。再び来られるイエス様を迎えるために、私たちを目覚めさせ準備させるこの永遠の福音を、サタンは極端や妄信、無関心というカバーで隠してきました。しかし、神様も働かれて、生きて働くこの永遠の福音を通して、召命と使命を持ったキリストの証人たちが準備されています。

闇の勢力が、現代のキリスト教会をいくら深い霊的眠りに陥れようと活動しても、私たちの主はご自分の民を持っておられます。光が神様の偉大な王座からこの地の隅々にまで、暗い私たちの心の奥底まで強力に照らされます。神様の子供になる力を受けるために、各人にこの光が照らされています。人の子として生まれた私たちが、神様の子として生きることができるようになるために、この光が臨んでいます。

 皆さんはキリストの品性が私たちを通して表される秘密を、栄光の望みとして持っておられますか?私が誰なのか召命が不確かなために、命をかけなければならない使命もなく生きておられるのではありませんか? この最後の時代に私たちは自分の使命を悟り、その使命が私たちの生き方になるようにしましょう。

み言葉を慕い真理を大切にする私たちが、人生の中で罪から救ってくださる神様の力を味わい、触って見るようになることを 切に願います。

罪を赦してくださる神様の愛と、罪に勝利させて下さるキリストの恵みと真理である聖霊の御力が、永遠に皆様と共にありますようにお祈りします。

 


最後の民の召命と使命 第3回

2018年01月27日 | 日記

使命を持って遣わされた人たちを新約聖書では"アポストロス・使徒"といいます。"送られた者”という意味です。皆さんは送られた者ですか。

"神様は私を召されたのでしょうか?" 神様の召命を確信して立ち上がる時、伝えなければならない使命を悟り、そのことのために命を捧げます。使命感がなければ神様のために生きるのではなく、自分のために生きます。召命を受け入れる時、使命を持つようになります。召命なしに使命だけがあれば狂信になります。呼んでくださる主体がないのに、自分の熱心だけだと魂を負傷させます。それは響きのない音であるだけです。使命は、召命から来ます。

イエス様を信じているという多くの人たちが、その生涯にこれほど力がなく、軟弱で、罪に敗北しながら暮らす理由は、召命と使命がないからです。どうして召しを受けたのか、何のために送られたのかを悟っていないのです。

 この小冊子は"キリストの受肉"に関する研究です。この研究が終わったら、皆さんは、召命と使命をプレゼントとして受けることになります。神様がなぜ私を呼び出されたのか、私に何の仕事を任せられたのか明確に分かるようになります。

 

"キリストの受肉"、この高貴な真理は、堕落した人間が無限の神の子のみすがたに一致するようにするテーマです。人間に与えられた"キリストの義"のゆえに、人がその方と同じように創り変えられる可能性があることを教えてくれる永遠の福音です。

それは神様が定められた日の直前に起きる、世界的な善と悪の大戦争に備える勇士たちを呼び集める厳粛な福音です。そのためサタンはこの福音を何の効力もないようにするために力を尽くしています。しかし、憐れみ深い神様は、心貧しく神様に叫び求める魂をそのままにしておかれません。主は約束の助け主を遣わしてくださいます。それは真理の御霊です。御霊は真理を明らかにしそれを保ってくださいます。


最後の民の召命と使命 第2回 

2018年01月26日 | 日記

召命、召しを受けた人々を新約聖書では"エクレシア・教会"と呼びます。"呼びだされた人々の集まり"という意味です。 皆さんは召しを受けましたか? そしてその召しを受けた人たちの群れの中にいますか?

次に、"使命"は主の働きのために遣わされることです。バプテスマのヨハネは遣わされた人でした。 「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った」(ヨハネ1:6)。

彼の使命はメシアが来られることを人々に知らせ、キリストを人々に知らせることでした。そして彼はキリストを伝えたために殺されました。イエス様はヨハネを最も偉大な預言者だと説明されました。 彼は主の道を整える預言者でした。もし、ヨハネが、その時代にいなかったなら、多くの人たちはイエス様が誰なのか分からなかったはずです。その当時も、多くの宗教家たちがおり、祭司たちがおり、たくさんの律法学者たちがいましたが、いずれも神様からの召しを受けていませんでした。使命を受けることができませんでした。

現代におけるバプテスマヨハネの使命は、キリスト再び来られることを人々に知らせ、キリストの品性を知らせ、キリストのために命までも捧げる人を整えることです。

そして特に、本書で研究するのは、"人の子・キリスト"という義の福音を通して"全地を明るくする(黙示録18:1)"最終時代の使命です。今の時代にこれ以上貴重な使命はありません。かつてヨハネが誕生する時、ヨハネの父ザカリヤに"わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである"(ルカ1:19)と伝えられました。この最後の時代に神様はクリスチャンたちを召して、バプテスマのヨハネの使命を与えられたのです。

 


最後の民の召命と使命 第1回

2018年01月25日 | 日記

クリスチャンは二つの命を持って生きる人です。どんな命でしょうか?召命と使命という命です。 召命とは"召しだされる"ことであり、使命は"遣わされた"ということです。

召命を"呼ばれたこと・calling"とも言います。私たちはこの召命を「ある特別な人が神様に仕えるために召しを受けた」ことだと思いがちですが、それだけではありません。その第一の意味は、私たちがクリスチャンとして神様の召しを受けた者だということです。世の中には多くのcalling がありますが、クリスチャンとして召しを受けることほど価値のあることはありません。クリスチャンという呼び名よりも名誉ある名称はありません。

皆さんがクリスチャンとして召しを受けているという事実について、よく考えてみてください。それがどのような意味を持っているのか黙想してください。何のためにクリスチャンという名前を受けたのか、誰のためにクリスチャンとして生きているのか考えてみてください。

そしてさらに私たちは、もう一つの召しを受けています。これから研究するヨハネの黙示録18章の第四天使の使命への召しと、マタイによる福音書20章の5時労働者への召しです。それはほんとうに特別な召しです。

"神様はなぜ私を召してくださったのか?"この召命がはっきりされなければなりません。召命感がなければ自分がなぜ教会に通っているのか、なぜイエス樣を信じているのか、自分がどのように生きるべきかが不明になってしまいます。ただ、生きて行くだけになってしまいます。献金もよく捧げて、ボランティアも一生懸命にやって、教会の奉仕も忠実にやっているので、なんとなく救われるだろうと漠然とした期待を抱えて生きているだけかもしれません。

そこで神の民たちは明確な召命がなければなりません。召命感は今がどのような時代なのかをわきまえるようにします。神様が私に何を望んでおられるかが分かるようになります。