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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

助け主聖霊 第14回

2016年09月14日 | 日記

3)聖霊に関する7つの質問

 1.聖霊の働きは、新約時代のペンテコステの時から始まったのでしょうか。

 

聖書は、神様が天地創造のみ業をなさる際に、聖霊が一緒に参加しておられた事実を証明しています。「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊(The Spirit of God)が水のおもてをおおっていた 」(創世記1:1、2)。

 初めから神様は、人類の器を通してご自分の目的を達成させるために、聖霊によって働かれていました。神様はモーセの時代である荒野の教会にも、「またあなたは良きみたまを賜わって彼らを教え」(ネヘミヤ9:20)とあるように、聖霊によってカレブとヨシュアに勇気と信仰を与えられました。また使徒時代には、始まったばかりのキリスト教会を力づけるために、聖霊の大いなる力が与えられました。

 中世の宗教暗黒時代には、聖霊は多くの殉教者の血をも、最も力ある福音の種とし、宗教改革の道備えをさせました。また、福音を全世界に伝えるために、生ける神様の言葉である聖書をすべての国と民族の言語に翻訳するように導いたのも、聖霊の働きの結果です。

 今日も同じ聖霊が人々の心を動かし、感動させることで、彼らの目をカルバリーの犠牲に向かわせています。人々の心に真理を悟らせ、あらゆる種類の偏見と不信の壁を崩し、また罪を犯したときには良心の呵責を与えることで、真の悔い改めの精神を持つように導いておられます。


助け主聖霊 第13回

2016年09月13日 | 日記

それでは、どのようにすれば、聖霊を受けることが出来るでしょうか?クリスチャンなら誰でも聖霊を受けることを望むでしょう。多くのクリスチャンが、聖霊に満たされるために祈っています。長い道のりを通って、毎朝、早朝祈祷会に出席し、聖霊を受けるために心をこめて祈る信徒たちがたくさんおられます。しかし、問題が1つあります。多くの場合、人々は、聖霊がどのような方であるか聖書的に知らないでいて、聖霊を求めているのです。聖霊ご自身が何を求めておられるかについて、深刻な誤りを持っていながら、漠然と聖霊を祈り求めているのです。また、神様のみ心に従わないでいながら、神様の望まれるように屈服しようとしないで、ただ聖霊の力とその現れを望んでいるのです。しかし、神様の品性に似ていない人に聖霊が与えられることは、教会やその当事者にとって大きな危険をもたらすことになります。

 

聖霊とは、人間の私利私欲に応じて与えられる装飾品ではありません。私たちが神様に何かを求めるときには、神様のみ心のままに求めなければなりません。神様が私たちに聖霊を与えられる理由は、これまで見てきたように、私たちを真理に導き、神様の言葉を悟るようして下さるためです。また、罪を悟って義に生きるように良心を目覚めさせるためです。そして、さらに他の人に神様の品性と真理を代弁する証人となるために聖霊を下さるのです(使徒1:8参照)。

 

私たちが聖霊を用いるのではなく、聖霊が私たちを用いられます。神様が望まれるままに、そしてご自分の方法と時期に応じて働かれるのです。多くの人々は、聖霊の意志を知るために祈るのではなく、自分たちが聖霊を用いてあることを行なえるように求めているのが実情です。従って、ある信徒たちは、特別な能力や奇跡を行う力を、聖霊を受けた証拠や、神様の承認を受けた証明書のように扱います。そのような理解をしているために、異言を語れない人は、聖霊を受けていない人としている場合が多く見受けられます。

 

では、聖霊をどのようにして受けることが出来るでしょうか?使徒行伝5章32節では、次のように答えています。「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。聖書は神様の言葉とそれに従う者たちに、聖霊が与えられると述べています。イエス様も「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」(ヨハネ14:21)と言われました。また、同じ14章23節には「イエスは彼に答えて言われた、『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう』」と言われました。

これによって、神様と神様の霊である聖霊は、従う者に与えられるという事実が明らかになりました。ですから、私たちは神様のみ言葉とこのお方の戒めを守り、神様のみ心に服従することが聖霊を受ける方法であるという事実を明確に理解することが出来ます。


助け主聖霊 第12回

2016年09月11日 | 日記

聖霊をどう理解するかという問題は、キリスト教会史において、常に議論と意見の相違の課題となってきました。人々は、ほとんどの場合において、聖霊の働きを、まるで、能力を与え奇跡を起こして、歓喜の経験をもたらす媒介であるかのように理解しようとしてきました。しかし、イエス様はむしろ、聖霊を、クリスチャンを真理に導き、神様のみ言葉とその意味を悟らせるお方として説明されました。ヨハネの福音書7章37〜39節には、次のように述べられています。「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである」。

ここで、イエス様がまだ栄光を受けておられなかったという意味は、まだ十字架上で亡くなっておられなかったことを表します。イエス様は私たちのために犠牲となられる、ご自分の痛みを伴う死をむしろ光栄だと思っておられたので、そのように表現されたのです。

 

イエス様が復活されてから天に戻られるまで、ご自分の弟子たちと一緒に過ごされた40日間は、黄金のような時間でした。その間イエス様は彼らに、聖書が記録している主ご自身のこと、すなわちメシヤについて預言し、説明している聖書の言葉を示し、説明することにほとんどの時間を過ごされました。ルカ24章25-27節のみ言葉は、私たちにその事実を間接的に示唆しています。「そこでイエスが言われた、『ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか』。 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」。

 

弟子たちはまだメシヤの使命と働きについて、聖書に記録された真理の言葉を正しく理解していなかったため、イエス様が体験されたようには聖霊を理解することも、受ける準備もしていませんでした。ですからヨハネ7章39節には、「御霊がまだ下っていなかった」と記録したのです。

もちろん、聖霊は常にこの世に存在しておられました。十字架以前にも、聖霊はおられました。創世記1章2節に、「神の霊が水のおもてをおおっていた」と聖書は記録しています。

 

しかし、人間が神様の真理の言葉を理解し、正しく受け入れるまでは、このお方を通して力が表されることは出来ないのです。イエス様は聖霊について、「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネ16:8)と言われました。この聖句にあるように、聖霊は、人々の心に、過去に犯した罪に目を開かせ、現在どのように義なる生活を送るか、そして将来受ける神様の審判について、良心に自覚を与えて下さいます。つまり聖霊がなさることは、クリスチャンが罪を離れ、義にかなった生き方をするように促すことです。人が十字架の前で罪を悔い改め、神様の真理によって改変され、新しい人生を生きるように導き、感化して下さるお方は、神様の霊、すなわち、聖霊なのです。


助け主聖霊 第11回

2016年09月10日 | 日記

イエス様は聖霊を真理の霊であると呼ばれました。真理を教え、真理に導き、真理を悟らせるのは、そのお方の働きであるという意味です。同じ14章26節で、主は「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」と言われたことをみても、聖霊の職分は、イエス様が彼らのためになされたことを、同じように彼らにすることでした。イエス様が彼らに、命の真理の道をいつも教え導いて来られたようにして下さるのです。ですから、彼らは孤児のように放っておかれるのではないと言われました。

 聖霊は、霊であると言われました。神様も霊です(ヨハネ4:24)。従って、神様は同じ時間にすべての場所に存在することができる遍在の能力を持っておられます。しかし、神様と等しくあられたイエス様は、肉体をもってこの地に来られました。私たち罪人と一緒に住みながら教え、模範を示し、また私たちのために贖いの犠牲となるために、人の肉体をとってこの地上に住まれたのです。

 そして、イエス様は、聖書の預言どおり、すべての地上の業を成し遂げられた後、再び天に帰られる時点で、貧しい弟子たちのために驚くべき、最も偉大な贈り物を約束して下さいました。肉体をとられたときのイエス様は、彼ら一人ひとりと、いつでもどこにでも一緒におられることは出来ませんでした。しかし今は、他の助け主である聖霊を彼らに送って導き、彼らがどこで何をしていても、一人ひとりと常に共にいて下さるという驚異的な約束を与えられたのでした。この約束は、弟子たちだけでなく、イエス様を神の子と信じて従うすべてのクリスチャンのための約束でした。聖霊の約束は、神様が人間に与えられる賜物の中で最も大きく、素晴らしい贈り物でした。

 今、イエス様が天に戻って行かれるときとなり、彼らは愛する主を失うことになるのでしたが、実は彼らは、もっと驚くべき霊的な経験と、主の霊の導きを受ける経験をすることになるのでした。それゆえに、イエス様は次のように言われたのです。「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」(ヨハネ16:7)。


助け主聖霊 第10回

2016年09月09日 | 日記

2)聖霊を受ける道

 3年以上も頼りにし、信じ従っていたイエス様が、今、天に帰るときになったと言われました。十二弟子にとって、その言葉は爆弾のような衝撃的な発表だったことでしょう。彼らの生涯のすべての期待と希望が、その方にありました。このお方のために、彼らは家と農地と船と網と生業の全てを捨てて従ってきました。家族や親戚や友人や隣人の非難と嘲笑をもろともせず、主に従ったのです。しかし、ここで突然彼らに別れを告げ、捨て残していくかのようにこの世を去っていくとおっしゃったのです。彼らはどうすればいいのでしょうか? 「クオ・ヴァディス・ドミネ(主よ、どこへおいでになるのですか)」というペテロの質問に「私の行くところに、今はついてくることはできない。しかしあとになってから、ついて来ることになろう」(ヨハネ13:36)と言われた主の答えは、彼らをさらに苦境に陥れることになりました。

 このように戸惑う弟子たちに向かって、まるで慈愛に満ちた父親のように、イエス様は次のような慰めの言葉を語られました。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」(ヨハネ14:16)。イエス様は聖霊を、他の助け主と呼ばれました。イエス様自身が彼らの助け主だったように、今離れて行かれるにあたって、他の助け主を彼らのために送ってくださると約束されたのでした。

 聖霊は、Comforter(慰める者)という英語の単語が内包しているように「必要なときに助けを与える助言者」という意味で「いつもそばにいて、慰め、道を案内して下さる」という意味を持っています。聖霊の臨在は、彼らにあたかもイエス様が常に彼らのそばにいて教え、愉し、なすべきことを知らせて、行く道を示して下さったように、必ず同じ役割をして下さるという約束でした。

 イエス様の言葉の意味をまだ確実に理解していないまま、呆気に取られた弟子たちに、イエスさまは次のように説明されました。「それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」(ヨハネ14:17-20)。