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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

 助け主聖霊 第9回

2016年09月08日 | 日記

7. 無理やり従おうと努力しているのは、従うことではない

私たちが神様の戒めに従おうとするときに、それが心の底から湧き出ず、ただ従うことが義務であり、み国に行くために必要なので従おうと努めるだけなら、私たちは決して従順の喜びを体験することは出来ません。実際にそのような行為は、従順ではなく、我慢行為だからです。なぜなら、心からの服従でない場合は、表面だけの外見的服従だからです。また、私たちが本当に従うことを望んでいたとしても、その望みが、神様の清い愛を知った結果として表されるのでなければ、私たちの心の中に生きている自我により、本当の従順に生きることがやがて出来なくなります。これらの努力は、利己心に支えられた特定の習慣の改革に過ぎません。自我が自我を改革しようとするのは、自らの努力によって罪から解放されようとするのと同様に、全く不可能な試みです。

罪の力は人間の力で征服することは出来ません。罪を征服するということは、天ではキリストの次に力ある天使だったサタンの霊を征服することであるため、人間の力では及ばないのです。最初から勝ち目のない戦いに勝とうとして努力するのは、無意味なことなのです。神様だけが私たちを勝利者にして下さいます。それゆえに、神様が私たちの良心を通して語られる働きは、単に自分自身がどのような罪に陥っているかを認識すること以上の、偉大な働きが含まれているのです。神様は私たちが自我(Self)を放棄することを望んでおられます。では、どのようにすれば自我を征服することが出来るでしょう?自我を征服する方法こそ、まさに水と霊から生まれる新生の経験です。

 唯一自我が死ぬときにのみ、高慢な望みがなくなり、感謝の心に溢れ、愛の香りが生活を豊かにさせ、主が私たちの心に臨在して下さり、私たちが神様の同労者として認められるようにして下さるのです。もし私たちが自我に執着して、心を神様に完全に捧げるのを拒否するなら、私たちは自ら滅亡を選ぶのです。なぜなら罪が見出されるところでは、神様は焼き尽くす火であり、罪と罪人は焼き滅ぼされるからです。

 

自我は征服することが難しい敵です。長年の自己欺瞞という複雑な形で腐敗した心は、簡単に聖霊の訴えに応答しません。従って私たちは、すべてキリストを通して得られる勝利が来るまでは、希望がないという事実を悟らなければなりません。しかし、勝利は確かに可能です。なぜなら、キリストにあって不可能はないからです。キリストの恵みを通して与えられる能力は、世界のすべての悪、腐敗した全ての感情を克服するのに十分だからです。

ある人々の自我は、高慢な感情によって大きく膨らんでいます。クリスチャンであると確信している多くの人が、これらの曲がった自我を持っています。彼らは岩なるキリストの上に落ちて砕かれる経験がありません。自我が砕かれる経験がなければ、彼らはこれからも自我に依存して生き、従って永遠の義に生きる経験をすることは出来ないのです。天の真珠の門をくぐる者は、すべて征服者として入ります。何を征服したのでしょうか。彼らが征服した最大の敵は、まさに自我です。


助け主聖霊 第8回

2016年09月07日 | 日記

残念ですが、神様が良心を通して語られるとき、私たちは、それが神様の声であることをほとんど意識せず、何のために語りかけておられるか気がつきません。ダビデ王の物語から私たちはよい教訓を学ぶことが出来ます。ダビデはウリヤを戦争に送って殺し、彼の妻を奪いました。この罪はダビデの良心を鈍くしました。時が来て神様は預言者ナタンをダビデに遣わし、一匹の小さな羊のたとえを通して、ダビデの良心を突き刺されました(サムエル下12:1-13参照)。ダビデはその話に出てくる貪欲な金持ちの話を聞いて、自分自身がどのような人間であるかを、突然気付きました。そして、自分の罪を深く悟ったダビデは、自分の罪を悔いながら悔い改めの詩、詩篇51編を書きました。

 神様が私たちに語られる言葉が受け入れられた場合、私たちの良心は目覚め、私たちがその間犯してきた具体的な罪に対して、深い自覚が起こるようになります。それらの罪は私たちを簡単に倒して、力をなくさせてきた肉の欲であったかもしれません。または、人々の間で起こる不正直な取引や、または直されていない悪い性格であるかもしれません。また良心は、私たちが楽しんでいたテレビ番組や、無駄な時間を過ごすようにさせた本、または音楽を指摘することもあるでしょう。

 イエス様はニコデモにも、同じ思想について言及されました。イエス様は、「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない」。(ヨハネ3:6、7)と言われました。言いかえれば、私たちは超自然的なある力によって、完全に他の人として再び生まれ変わらなければならないということです。すなわち、別人に変化する必要があるということです。

 6.私は勝利するであろう

 良心の叫びに耳を傾けて聞くことと、神様に属するものでありたいという望みを通して、私たちは罪深い習慣を捨てたいという、次のような決心をすることが出来ます。「私はこの罪を必ず克服すべきだ」。「私は好きなこういうテレビ番組を二度と見ない」。「私は絶対にもう悪い習慣に引っ張られない」。

 ところで、多くの真面目な人々が、あれこれ悪い罪の習慣を修正しようとして、よいクリスチャンになろうと試みますが、ほとんどが失敗してしまいます。そうやって始めることは最初から間違った道を行くことになります。なぜなら、罪の改革は、習慣の改革よりもまず心の改革が起きなければならないからです。心が改革されていない状態で、習慣を改革しようとしても、その改革は、長続きせず、挫折してしまいます。

 穴が空いているところに詰め込もうとするような宗教には、何の価値もありません。神様は私たちの心全てを作り変えたいと望んでおられるのです。私たちの心のどのような小さな部分であっても、悪の性質が開発されるように放っておいたり、または反逆や不満、批判の精神が少しでも芽生えるのを許さないで下さい。多くの人がこのような中途半端なやり方で、毎日の信仰生活を送っているために、神様の品性を正しく表すことが出来ずにいるのです。


助け主聖霊 第7回

2016年09月06日 | 日記

5.生まれながらの怒りの子

 

パウロは、エペソ2章3節で、同じ主張をしています。エペソ人は、一般の人たちと特に違っていた人々ではありませんでした。しかし、パウロは彼らを「生まれながらの怒りの子」と表現することでローマ7章で彼が言及した、罪に力なく倒れる人間の状態を再度提示しています。ダビデは詩篇51篇5節で「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。」と言い、ヨブは「だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか、ひとりもない」(ヨブ14:4 )と述べました。

 私たちは、欲望、感情、動機、興味、傾向、嗜好など、人間の個性と性格を形成するものを心の中に持っています。そしてこの記事を通して私達は、なぜ赤ちゃんも罪深い傾向を示すかについて知ることができます。結局、人は、心に自己中心的自我を持っているので、本質的に、自然に神様を拒絶するようになるのです。人間は、自分自身のうちには神様に従おうとする意志を持っていません。人間は、自分が望むことだけをしようとします。「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ8:7)。「わたしは恨み(敵意:欽定訳)をおく、おまえと女とのあいだに」(創世記3:15)。

 罪に対抗して戦おうとするすべての心は、神様が植えつけて下さいます。神様は「わたしは恨み(敵意:欽定訳)をおく」と言われました。しかし、この敵対関係は、人間に先天的に備わっているものではありません。人類の始祖が神様の律法を犯したので、彼らの本性は歪みました。そのために、人類はサタンと調和し、彼の意志に基づいて考え動くようになってしまいました。罪人と罪の創始者であるサタンとの間には、本質的に敵意はありません。両方とも反逆に加担したからです。もし神様が特別に干渉されなかったなら、人類とサタンは同盟を結んで天に対抗したのです。人類はサタンと敵どころか、むしろ神様に反抗することに連合したのです。

 神様が人間に語られる通路は、良心です。良心は、私たちの心に置かれている器官であり、神様はこれを通して、私たちが気付かずに頑固な罪の道にはまり、取り返しがつかなくならないように働かれます。良心は歪められて麻痺することもありますが、神様は、この良心を通して、神様の民にも不信心な人にも語られます。

神様は愛をもって良心に訴えられることによって、人間が再び神様に立ち返ることが出来るように導いておられます。そして自己中心的な私たちの心に、イエス様が入って来られるように条件を整えて下さいます。私たちが自己中心的な生活にこだわるなら、真の幸福を持つことはできず、罪からの完全な勝利を勝ち取ることも出来ません。そればかりか、み国と永遠の命を受ける希望もないというのも事実です。ですから悪に傾きやすい傾向と自我は、必ず完全に屈服させられなければなりません。

 


 助け主聖霊 第6回

2016年09月05日 | 日記

4.同伴者であられる聖霊

 

パウロは、「パラクレートス= 助け主」という言葉と一緒に別の言葉を使用して、聖霊の活動を説明しています。これは「御霊の交わり」という言葉です(ピリピ2:1)。いつでもどこでも、すべての悲しみと苦しみの中で、そしてお先真っ暗で、将来が絶望的に見える時も、私たちが無気力で孤独を感じるときに、信仰の祈りの答えとして、助け主が私たちのところに来られます。環境は、私たちをすべての地上の友人から分離させるかもしれません。しかしどのような環境であっても、私たちを天の助け主から引き離すことはできません。私たちがどこにいても、どこへ行っても、いつも彼は私たちを支え、手を取り、励まし、慰めるために私たちの右におられます。

 弟子たちに聖霊の賜物の重要性を説明しながら、イエス様は、「それ(聖霊)がきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである 」(ヨハネ16: 8-11)。と言われました。

私たちは、聖霊が生まれ変わる力の源であることを体験することが出来ます。もしある人が罪から離れることを拒否し、キリストを受け入れることを躊躇するなら、聖霊が彼の良心に働き、彼らがどのように裁かれるのかを示してくださいます(ヨハネ16:11参照)。反対に、聖霊によって私たちは清められ、神の子として聖別され、義とされることが出来ます(Ⅱコリント6:11参照)。聖霊によって私たちは、心と人生の戦いで勝利を得、キリストにあって成長して多くの実を結ぶことが出来るのです(ガラテヤ5:16-25参照)。

 また、聖霊の働きは、私たちの中に義を増し加えて下さることで、これにより、私たちは真の平安と喜びを得ます。そして、真理に導かれ、弱い人を助ける力が与えられ、罪から自由になり、罪に終わりを告げることが出来るようになります(ローマ14: 17、8:26、ヨハネ14:26、エペソ3:16、Ⅱコリント3:17、ルカ24:49参照)。

 聖霊の働きを理解すればするほど、私たちはその臨在にもっと感謝するようになります。私たちは罪と自己と戦うために、常に聖霊の助けが必要です。従って、続けて次の文を読む前に、聖霊の助けを祈り求めてください。

 


助け主聖霊 第5回

2016年09月03日 | 日記

4.同伴者であられる聖霊

 パウロは、「パラクレートス= 助け主」という言葉と一緒に別の言葉を使用して、聖霊の活動を説明しています。これは「御霊の交わり」という言葉です(ピリピ2:1)。いつでもどこでも、すべての悲しみと苦しみの中で、そしてお先真っ暗で、将来が絶望的に見える時も、私たちが無気力で孤独を感じるときに、信仰の祈りの答えとして、助け主が私たちのところに来られます。環境は、私たちをすべての地上の友人から分離させるかもしれません。しかしどのような環境であっても、私たちを天の助け主から引き離すことはできません。私たちがどこにいても、どこへ行っても、いつも彼は私たちを支え、手を取り、励まし、慰めるために私たちの右におられます。

弟子たちに聖霊の賜物の重要性を説明しながら、イエス様は、「それ(聖霊)がきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである 」(ヨハネ16: 8-11)。と言われました。

 私たちは、聖霊が生まれ変わる力の源であることを体験することが出来ます。もしある人が罪から離れることを拒否し、キリストを受け入れることを躊躇するなら、聖霊が彼の良心に働き、彼らがどのように裁かれるのかを示してくださいます(ヨハネ16:11参照)。反対に、聖霊によって私たちは清められ、神の子として聖別され、義とされることが出来ます(Ⅱコリント6:11参照)。聖霊によって私たちは、心と人生の戦いで勝利を得、キリストにあって成長して多くの実を結ぶことが出来るのです(ガラテヤ5:16-25参照)。

 また、聖霊の働きは、私たちの中に義を増し加えて下さることで、これにより、私たちは真の平安と喜びを得ます。そして、真理に導かれ、弱い人を助ける力が与えられ、罪から自由になり、罪に終わりを告げることが出来るようになります(ローマ14: 17、8:26、ヨハネ14:26、エペソ3:16、Ⅱコリント3:17、ルカ24:49参照)。

 聖霊の働きを理解すればするほど、私たちはその臨在にもっと感謝するようになります。私たちは罪と自己と戦うために、常に聖霊の助けが必要です。従って、続けて次の文を読む前に、聖霊の助けを祈り求めてください。