しかし、イエス様は神性を持っておられたでしょうか。 そうです。 神性の栄光が内面から輝き出ることがあったのでしょうか。そうです。 けれどもそのような面については、私たちは聖書の言葉通りに信じるだけで十分であり、私たちが罪と戦って勝利することとは関係のない話題ということになります。
イエス様のお姿が変えられた場面があります。「ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」(マタイ17:2)。これは私たちの模範となって神様の言葉に服従することとは全く関係のないことです。
イエス様は私たちと違っておられたでしょうか。 当然です。私たちと違っておられました。イエス様は神様なのに、どうやって私たちと同じになるでしょうか。しかし、そのような面を追求し始めたらきりがありません。イエス様の神性の面を強調することによって、どうしても、私たちとは違う方だという立場がクローズアップされ、キリストには可能だけれども、私たちには不可能だという考えに誘導されることがないように、気をつけなければなりません。それは聖書の福音ではありません。
イエス様は私たちと違う方ですか? 違います。しかし、イエス様のこの地上での生涯において、私たちの模範となって神様に従い、勝利する模範として、一度でも私たちにはできない能力や権威を使われたことがあるでしょうか。ありません!!
イエス様が行われた奇跡、それは神様としてされたのではなく、人間として信仰を活用されたものです。 水の上を歩かれたことも、神様として歩かれたのではありません。私たちと同じ人間として、父なる神様の力を信頼することにより、聖霊の力を通して歩かれたのです。ペテロも水の上を歩きました。
怒った波と暴風雨に向かって「静まれ」と命令されました。それは神様としての権能を行使されたことのように見えますが、これも神様に対する信仰によってなされたものです。イエス様が「天と地と海の主」という立場でなさったことではありません。むしろそのような力を捨てて「わたしは自分からは何もできない」(ヨハネ5:30)と言われました。