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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

最後の民の召命と使命 第10回

2018年02月03日 | 日記

しかし、イエス様は神性を持っておられたでしょうか。 そうです。 神性の栄光が内面から輝き出ることがあったのでしょうか。そうです。 けれどもそのような面については、私たちは聖書の言葉通りに信じるだけで十分であり、私たちが罪と戦って勝利することとは関係のない話題ということになります。

イエス様のお姿が変えられた場面があります。「ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」(マタイ17:2)。これは私たちの模範となって神様の言葉に服従することとは全く関係のないことです。

イエス様は私たちと違っておられたでしょうか。 当然です。私たちと違っておられました。イエス様は神様なのに、どうやって私たちと同じになるでしょうか。しかし、そのような面を追求し始めたらきりがありません。イエス様の神性の面を強調することによって、どうしても、私たちとは違う方だという立場がクローズアップされ、キリストには可能だけれども、私たちには不可能だという考えに誘導されることがないように、気をつけなければなりません。それは聖書の福音ではありません。

イエス様は私たちと違う方ですか? 違います。しかし、イエス様のこの地上での生涯において、私たちの模範となって神様に従い、勝利する模範として、一度でも私たちにはできない能力や権威を使われたことがあるでしょうか。ありません!!

イエス様が行われた奇跡、それは神様としてされたのではなく、人間として信仰を活用されたものです。 水の上を歩かれたことも、神様として歩かれたのではありません。私たちと同じ人間として、父なる神様の力を信頼することにより、聖霊の力を通して歩かれたのです。ペテロも水の上を歩きました。

怒った波と暴風雨に向かって「静まれ」と命令されました。それは神様としての権能を行使されたことのように見えますが、これも神様に対する信仰によってなされたものです。イエス様が「天と地と海の主」という立場でなさったことではありません。むしろそのような力を捨てて「わたしは自分からは何もできない」(ヨハネ5:30)と言われました。


最後の民の召命と使命 第9回

2018年02月02日 | 日記

私たちの研究テーマは、イエス様が持っておられた人性は救いのご計画の中でどのようなものだったのか、それは私たちにとってどんな意味があるのか、その部分についてだけです。

実は、19世紀の再臨運動の先駆者たちの多くがアリウス主義者だったというのは驚くべきことです。彼らは三位一体に反対し、御子は永遠の方ではないと信じ、聖霊も人格がなく、一つの力だと信じていました。 神様だけが始まりがない方とし、キリストは神様から出たものであるという見解を持っていました。ですから私たちは、誰がそれを語ったかということに私たちの信仰の基礎を置くのではなく、「それは聖書的なのか」ということから出発しなければなりません。

 イエス様は神様ですか? そうです。 イエス様は人間ですか? そうです。 イエスさまが「オギャー」と言って赤ちゃんとなって生まれたとき、彼は神様で、同時に人間でしたか? そうです。イエス様はエホバですか? そうです。 イエス様は人性と神性を兼ね備えた方です。その方がどのように聖霊によって生まれることができたのか説明できる人はこの世にだれ一人もいません。イエスの神聖(神様の本質)についてこの世で明確に説明できる人は一人もいません。 どのような神学者も、いかなる牧師、どんな教授もそれを説明できません。この問題について、明快に答えられる存在は神様以外にはだれもいません。

私たちが神様の前に行くまでは、それは永遠の神秘です。ですから、イエス様の神性の問題は、私たちが論じることのできるテーマではなく、私たちが扱うことのできる性質のものでもありません。だれがあえてイエス様の神性の部分を暴き出して説明することができるでしょうか。有限な人間が無限の神様の神的本性を完璧に理解しようとする試み自体が神様を汚すことになるのです。「それは神秘であり、全てを知ることは不可能である」と答えるのが正直な答えだと言えます。

ですから、私たちが研究するのは、イエス様の人性の面だけということになります。それはイエス様の神性を無視するからではなく、私たちが神様ではない限り、その問題を知ることができないからです。人間となって来られたイエス様の立場を理解し、イエス様がこの世を生きていかれる中で、サタンの誘惑に勝利して、神様の言葉に服従し、罪に勝利する人生を送られ、私たちの模範となられた、その面だけを取り上げて学ぼうということです。   

イエス様がとられた人間の本性は私たちと同一のものであり、罪の結果によって堕落した私たちと同じ肉体を持って来られたのです。 それにもかかわらず罪を犯されず、勝利されたその方の生涯について知らなければなりません。


最後の民の召命と使命 第8回

2018年02月01日 | 日記

カルケドン信条もキリストの神性についてニケア信条の見解を維持しているために、すべてを容認することはできませんが、キリストの神性に関しては、信条を確立した功績は大きいと言えます。一言で定義すれば、イエスは完全な神であり、完全な人間だということです。一つの本性を強調して混合されず、変化されない方だと言い、二つの本性を強調し、一人格内に二つの本性があるのではないということです。これ以外の理論はすべて異端だと結論を下しました。

このことをもっと正直に言うなら「イエスは人間か神か」という問題は人間の理性で整理することができないということです。 そこでこれ以上論争しないで、イエスは完全な神でありかつ完全な人間であるとだけ述べたということです。

それをもう少し説明しようとして神性を強調すればアポリナリウスのように異端になり、完全な人性だけを強調したらエビオン主義となり、一つの肉体の中にそれぞれ独立した二つの本性を強調すれば、ネストリウスのように異端となって、二つの本性が結合された第3の本性とすればユティケースのように異端になるのです。

 本書で研究しようとするのはイエス様の神性と人性がどのように一つの本性の中に存在することができるのかについてではありません。神性と人性がどう調和を保って一人の人格の中に存在されたのか、その方は人間性を持っておられたのか、神性を持っておられたのかについてでもありません。この論争は過去の歴史の中で多くの人たちが私たちの代わりに戦ってきており、確立してきたものです。それをまた新たに取り出して新しい説を主張しようとするものではありません。 


最後の民の召命と使命 第7回

2018年01月31日 | 日記

このような中にアレクサンドリア学派のユティケース(375-454)が登場し、 イエスの神性と人性を持って戦うことなく、イエスは「神性と人性が結合されて第三の本性に変化した方」として第三の本性という単一本性を強調しました。 しかし、これも一性論といって451年カルケドン会議で誤びゅうとされました。このカルケドン会議で「イエス様はどんな本性を持っておられたのか」ということに対する論争は終結しましたが、その結論は次のようです。

「われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。

同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。

同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。『罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである』。神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた。彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。この結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、唯一の位格、唯一の自立存在に共存している。彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである」(カルケドン信条、ウイキペディアより)。


最後の民の召命と使命 第6回

2018年01月30日 | 日記

キリストの神性と人性に関して、初期の教会には大きく分けると二つの理解がありました。人性を強調するグループと神性を強調するグループです。そして人性を強調する人たちの中にも、アンティオキア学派と、非常に強く人性を強調するエビオン主義(キリストは神格化された人間だとか、単に預言者の一人とする立場)があり、神性を強調するグループにも、アレクサンドリア学派と、あまりにも神聖を強調する仮現主義(ドケティズム、キリストが肉体で来られたことを否定する)がありました。

アレクサンドリア出身の、バシリデス(Basilides、活動時期117-138)は仮現主義の創始者として、事実上ドケティズムを一番先に紹介した人物です。彼は「キリストは苦難を受けないで、クレネ出身のシモンがキリストのために十字架を背負って行くように強要され、その瞬間、シモンは、キリストの姿を持ち、兵士たちはシモンをキリストと思って十字架につけた。 そしてイエス自身はクレネ人シモンの姿を取ってそこにいて、その事実を知らない人たちをあざ笑った」と言いました。このような非聖書的な主張が教会に与えた害悪は全てを紹介できませんが、逆説的にこのような論理に反対するため、キリスト教神学は発展することになりました。

前の質問に戻って、「キリストが神様なら彼の本性は人間か神か?」という問題は依然として解決すべき課題でした。 ニケア公会議後、依然としてキリストの神性に対する意見が分かれていた当時、アポリナリウス(310-390)は352年に人の形で来られた神様(単一神性)を強調しましたが、360年アンティオキア学派とカッパドキア教父から仮現主義だと宣告され、その後、381年アンティオキア公会議で三位一体が完成されたとき、アポリナリウスは異端だと弾劾されました。

アポリナリウスはイエス様の単一神性を強調し、異端となりましたが、コンスタンティノポリスの総主教だったネストリウス(Nestorius)は、単一神性や、単一人性を強調すれば異端になるため、キリストは神性と人性の二つの本性をもっているという養成論を提起しました。その理由は、当時、「マリヤは神様の母親か? 人間の母親か?」という論争が起き、神性を強調するグループは神の母だと主張し、人間性を強調するグループは人間の母だと主張しました。そこでネストリウスは神性と人性が混合されない二つの本性に区別されて存在すると主張し、マリヤは神様の母親でもなく、人間の母でもない"キリストの母"(Christotokos)という理論を主張しました。

この見解は431年エペソ宗教会議で当事者のいない状態で異端(養成論者として)と決め付けられました。しかし当事者が出席していない状態で一方的に断罪した異例の会議だったため、ローマ教会監督のシックストゥースは、ネストリウス不在で開催されたエペソ会議は公正ではないので修正しなければならないと提案しました。そのため、人性を強調するアンティオキア学派と神性を強調するアレクサンドリア学派が連合して信条を作るよう要請し≪連合信条≫を作成することになります。しかし、この信条は二学派とも納得できる内容ではありませんでした。