17日の故中曽根康弘元首相の自民党・内閣合同葬儀に際し、総務省から都道府県市町村へ、文部科学省から国立大学、各教委へ、弔意を示すことを求める通知が送られた。すぐに、加藤勝信官房長官は「広く哀悼の意を表するよう協力を求める趣旨」であると強制ではないことを強調した。
勿論、強制であれば加藤自身の言葉の中にあるように「教育の中立性」や内心の自由を誰が考えても侵すもので、許されるものではない。しかし、「お願い」であれば、問題はないのか?
当然、「協力を求める」といっても、事実上の強制ではないか、という疑いもある。現場では国旗の掲揚や黙祷をしなければ、後に予算を減らされるのでないか、という危惧も生じるからである。
だが、そもそも弔意は、強制であれ「お願い」であれ、他人から言われて示すものか?
弔意とは、人の死を悼み、悲しみ、弔う気持ち、心のことである。それを政府が強制したりお願いしたりするということは、強制や要請しなければ、弔意の表明が不十分だと考えていることになる。何もしなければ、弔意を示す人が多くはいないかもしれないので、そういうことをしたということである。亡くなった人物は立派だったので、何もしなくても皆が弔意を示すだろう、と政府が考えていれば、強制も要請もしなくてもいいはずだ。要するに、政府は、「故中曽根康弘は自ら進んで弔意を示す人が少ない、その程度の人物だから、お願いだから弔意を示してよ」と言っているのである。これほど、故人に失礼な話はないだろう。
珍しく、朝日新聞の天声人語(10月16日)がいいことを書いている。同じ通知が、故橋本龍太郎の合同葬儀の際にもあった。その時、弟の橋本大二郎は「弔意を求めるなどということは、亡き兄の本意ではない」と述べたというのだ。これが、まともな人間の考えることである。
故中曽根康弘があの世で政府の対応を知った時、自分を馬鹿にするなと怒るのだろうか、それとも、何だっていいから国民は弔意を示せと強圧的な姿勢を見せるのだろうか? 勿論、あの世が本当にあればの話だが。