楽しいブログ生活

日々感じた心の軌跡と手作りの品々のコレクション

「私の祖父の息子」

2010-02-01 19:26:55 | 日記
1月早々の徳島新聞に“藤野可織”という作家がおもしろいエッセイを寄せていたのを印象深く覚えている。
内容は久しぶりに電話がかかってきた友人に、自分は小説を書いててこの間新人賞をもらったということを告げるのだが、その友人は作家の期待した「よかったね」とか「おめでとう」とかのリアクションは一切なしで「小説?なんで?なんのために?」と心底不思議そうに尋ねたというのだ。
私はこの文章を読んで(だから、世の中っておもしろいんだよなぁ)と悦に入った。

おそらく100人中99人までが「すごいね」とか言って賛辞の意を表し、場合によっては嫉妬したり、あるいは素直に尊敬の念など抱きといったところだと思うのだが、(もちろんその99人の反応にしても細かいところを突き詰めて行けば一様ではないだろうが)、予想外の反応を示す異分子も必ず存在するのだ。
自分の周りの人間の中にも文章を書く行為そのものにまったく興味や価値を認めない人間もいるにはいる。

逆にずいぶん昔、(もう亡くなってしまった)中島梓が栗本薫と2つのペンネームを使って華々しくデビューしたのを、知り合いの若い女の子が「悔しい」と感想を漏らしていたのを失笑気味に眺めたことも思い出す。
その子にとって「悔しい」という言葉が順当であれば、口に出すはずもないし、単なる「ないものねだり」のファッションだと断じて私は取り合わなかったが、気持ちは解らないではなかった。

私にしてもちょっと前までは(ああ、何者にもなれなかったなぁ)と何者かになるための一切の努力をしなかった自分のことは棚にあげて、うそぶいていた時期があるからだ。
いつぞや、目の先の平凡なことがらひとつクリアできない人間が何でその先に進めるというのか、自責ではなく肩の力が抜けたところで、フイっとまるで悟りの境地のような心境に達したことはあるが、元の木阿弥、あいも変わらず諸欲のはげしい俗人のままではある。

そしてここまでが、長い長い前置きだったのだが、標題は本のタイトルで、去年もこのブログでちらっと触れている、同級生である殿谷みな子さんの最新作である。
(先日こたつで読んでた本とはコレでした。)
つまり知り合いの書いた本というのは、純粋に虚心坦懐に読むということが難しい。

しかし、この本を読んで、高校の時、なぜ彼女がだんとつのマドンナであり得たのか合点がいったような気がした。
私はクラスが別で高等学校時代に接点はないが、雰囲気のある女性だという話は聞いていた。
言の葉のいずる前に感じるその人の内包する精神性。
やはり人とは違う環境、経験というものが瞳の奥に重層な揺らめきを与えていたのではないだろうか。

翻って自分の場合は、何の変哲もない農家の田舎娘で、平々凡々、スペシャルに区分できるようなものは何ひとつ持ち合わせず、ハングリィ精神も皆無に近いとくれば、これはもう川原の石っころになるしかない。
別に卑下してる訳じゃないっすよ。単なるひとつの必然性のたとえです。

で、作家がなぜ尊敬されるかといえば、(もちろん作家も作品も実に千差万別だが)人間如何に生くべきかを深く掘り下げて、その道を提示する言葉を紡ぎ出せるからだと思うのだ。
それはまず自分のため、ひいては読者のための指針ともなる。
私には言葉そのものに対する渇望があるが、豊かな言葉の海で優雅に泳いでいるように見える彼女とはそもそも別世界の人間なんだなぁという唐突な感想を述べて、(ちょっと文章が長くなり過ぎたようなので)今日のところはもうお終いにしよう。
コメント
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