楽しいブログ生活

日々感じた心の軌跡と手作りの品々のコレクション

「献花」

2011-06-11 20:34:47 | 映画、演劇、コンサート

いよいよ本日徳島初公演、三上賀代さんととりふね舞踏舎による「献花」見に行って参りました。
「ひとこと・・・」と四国放送の感想を求める取材のマイクを向けられて、友人は逃げたそうですが、確かに一言でも二言でも感想を述べるのは難しい。
とりあえず、どういった表現だったか、かいつまんでの説明ということになると・・・。

真っ暗闇の中に静かな音楽だけがしばらく流れ、やがて右手の方からかすかな照明に照らされて白い着物を着た踊り手が腰を折った低い姿勢で、片手だけを前に突き出し、頭に挿した一輪の花に先導されるようなポーズで、恐ろしくゆっくりと超スローモーションのすり足で舞台中央まで移動するというところから始まる。
赤い造花が提灯をイメージさせたが、決して上下に揺れることなくほとんど水平に、ゆっくりではあるが一定の速度で舞台を横切る様は、のっけから踊り手が並々ならぬ躯体訓練を受けていることを感じさせるものではある。
衣装が変わると踊りも様相を変えるが、単なる静から動へが死から生へと切り替わるものではなく、ずっと死の匂いを引きずったままの激しい身体の動き。そして顔の表情も驚くほど、変化する。
中盤を過ぎた頃、白いパンツのみを身につけ全身白塗りした男性2人が加わり、舞台構成にも一瞬ハっとする新鮮な効果が盛り込まれている。
意味を見つけようとしてはいけないのかも知れないが、その後出てきたもう一人の男性は、手と顔は白塗りしているが髪の毛は黒く、衣装は白いシャツと黒いズボンという学生風の普通の格好で、はだしの足は白塗りされていない。
黄泉と現世の狭間にいる人間を表わしているのかとどうも理屈っぽく考えてしまうのだが、三上さんにしてもずっとはだしで踊りとおすのかと思っていたら、後半部では「ぽっくりゲタ」のようなものを履いてきたので、その意味するところは何なのだと、どうしても探りを入れる癖からは開放されない。
小道具も東南アジア的“蓑がさ”のお化けみたいなのが出てきたり、ダウジングをイメージさせる長い花枝の使い方など、(何なのだろう)と訳がわからないまま見入ってしまう演出の怪しさは、本体の踊りと不可分のものだろう。
終盤に近付くにつれ、三上さんのメイクが老婆のようにごわついて乱れたものに変わってきたが、身体の動きは終始骨を感じさせない柔らかいもので、(これを言っちゃ反則だが、)その体力に舌を巻く思いであった。
そうそう、公演中、(何というか、老婆の妖精だな)と感じたことを付け加えたい。
三上さんも舞踏は「感じて欲しい」と言っていたが、自分が何を感じたか言葉で表現する以前に、果たして何かを感じたのか?と問うても明確な答えは導き出せない。
ただ若者のかっこいいブレイクダンスを見たときの爽快感や高揚感とは別の、もやもやしているが(ああ、そういう世界はあるだろう、普段は忘れていても、自分が生き続けて行く過程の中で、先祖から受け継いだ密やかな土着の香り、日本人の感性の源流の匂い)そうしたものへの穏やかな肯定の気持ちとでも言おうか、そういったものはあるかもしれないと思う。
三上さんが語りかけたのは、私達があまり使ってない受信装置へかもしれない。
ある日突然「CG、CQ こちら・・・」と時空を超えて意味のある通信がキャッチできるかもしれない。
そのときはお知らせします。
上の写真は今回の公演を企てた詩誌「逆光」の25周年記念展に主宰者の恩師にわたしたち教え子が送った花。
下は近代美術館のお食事所TANTOで食した日替わりランチと、バニラ&ストロベリーのソフトクリーム。
 
コメント
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