楽しいブログ生活

日々感じた心の軌跡と手作りの品々のコレクション

父のこと

2011-06-19 21:51:10 | 日記

人間山奥で1人で暮らしていれば、その心理活動はずいぶん単純だろうと思われる。
人と人の間で生きて行かねばならない人間は、時におべっか使ったり、嘘をついたり、自分を認めてもらいたいがために努力したり、自慢したり、卑下したりいろいろ大変なのだ。
どのように生きてゆくかはその人の価値基準がどこにあるかで変わってくる。
人に認めてもらう方法というのも芸術家であればその作品において、スポーツ選手であれば、その身体能力及び成績において、役者であればその演技力において、といったものは普通に正当的なものだろう。
じゃ、特別な才能に恵まれない一般人の場合、何によって人から評価してもらうか・・・。
美人であるとか、家が金持ちとか本人の意思とは関係ない部分を除けば、やっぱり人間性しかないのではないかと思う。
残念なことに娘から見た実家の父の評価は恐らく自己評価より低い。
上の写真、今だに続いているのである、自分の経歴書作り。
娘のわたくしがワープロで打って清書するたび、手直しと追加原稿が返ってくる。(死ぬまで続くやもしれぬ。)
旧字が多く、字そのものも読みにくい、おまけに文章がわたくしに言わせれば小学生レベル、文字を追いかけるのもストレスを感じるのだ。
これをどうするのか聞くと戦友仲間とか日中友好会の会員に配るというのである。
誰がそんなもの喜ぶというんだ。恥さらしもいいところだと言いたいのをぐっとこらえる。
そもそも自分がどういった賞を受けたとかこれこれの功績があるなどの経歴を確認して、自己陶酔している様子が丸解りなのだが、自分かわいさにそこらのことは見えていない。
しかし、高潔な人格者としての父親を娘側からは望めない。
小市民として曲がりなりにも頑張ってきて今は年老いた父。自分が生きた証しをささやかな小冊子にまとめる位、周りの人も許してくれるだろう。自分の体験を思い出し、記録するという作業においていくばくかのボケ防止の効果も期待できるのではないかと思っている。
今日も内孫の成人式の写真をウチの娘と勘違いして持ってきた。間違いを指摘すると
「いやあ、ぼけちまってなあ」と笑って帰っていったが、この程度のボケなら愛嬌で済む。
しかし、認知症の傾向は強まっている。どのように対処していくかで、周りの人間の人間性も伺える。
いや、かくいう自分自身がいつそこへ投げ出されるか分からない。尊厳には愛と赦しが必要なのだと肝に銘じたい。
コメント
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