■日本のいちばん長い日 (1967)
監督: 岡本喜八
原作は、大宅壮一編となっていることが多いが、本当の著者は半藤一利。『日本のいちばん長い日』(文藝春秋)である。
1945年7月26日のポツダム宣言から、黙殺、原爆投下、ソ連参戦、回答、再回答、受諾、8月15日の玉音放送へといたる大日本帝国末期の日々を、史実に忠実に再現したドラマ。↓のレビューにもあるように、
http://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=4413
阿南陸軍大臣を演ずる三船敏郎をはじめ出演俳優たちの多くが、実際に戦場で戦った経験者である、ということが、この映画の迫力の源だろう。
阿南陸軍大臣の割腹自殺、森近衛師団長の殺害、政府が終戦の詔勅の文案を議論しているときに次々に飛び立ってゆく特攻隊員たち、ピストルで脅されても屈しないNHK局員、ビラを撒いたすえ自決する将校たち、等々すべて実話である。今日観た部分でも、大西瀧治郎軍令部次長が血相変えて「日本人があと2千万人特攻で死ねば勝てる!」と外相に詰め寄るシーンがあったが、あのセリフは大西が常に口にしていた有名な言葉(正確には、日本国民の5分の1が死ねばアメリカは嫌気がさす」というような言葉だったというが)。大西は特攻戦法の導入を主張して神風特攻隊を編成し、「特攻の父」「特攻生みの親」などと呼ばれた。
特攻隊で何千人もの青年を死に追いやった大西の真意は、「このような外道の戦法を始めれば、慈悲深い天皇陛下が必ずや『もうやめるように』と仰せになって、連合国との講和を命ずるに違いない」という期待だったという。大西も、1944年6月のマリアナ沖海戦以降は、日本に勝ちはなく、一刻も早く戦争をやめるべきだとわかっていたのである。そして、終戦のためには、天皇の命令しか方法はないこともわかっていた。
しかし天皇は、特攻の開始を聞くと、終戦を命じるのではなく、「もっと頑張るように」と激励した。大西は引くに引けなくなって、次々に特攻隊を繰り出すしかなくなったのである。「慈悲深い天皇」の決断に頼るとは、なんとも甘えた話で、呆れるばかりだが、ポツダム宣言受諾のときも、政府も軍も自ら戦争をやめることができずに、天皇の聖断に頼ったのである。
次回は、今日終わったところ、御前会議で天皇が聖断をくだすシーンから観ます。
監督: 岡本喜八
原作は、大宅壮一編となっていることが多いが、本当の著者は半藤一利。『日本のいちばん長い日』(文藝春秋)である。
1945年7月26日のポツダム宣言から、黙殺、原爆投下、ソ連参戦、回答、再回答、受諾、8月15日の玉音放送へといたる大日本帝国末期の日々を、史実に忠実に再現したドラマ。↓のレビューにもあるように、
http://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=4413
阿南陸軍大臣を演ずる三船敏郎をはじめ出演俳優たちの多くが、実際に戦場で戦った経験者である、ということが、この映画の迫力の源だろう。
阿南陸軍大臣の割腹自殺、森近衛師団長の殺害、政府が終戦の詔勅の文案を議論しているときに次々に飛び立ってゆく特攻隊員たち、ピストルで脅されても屈しないNHK局員、ビラを撒いたすえ自決する将校たち、等々すべて実話である。今日観た部分でも、大西瀧治郎軍令部次長が血相変えて「日本人があと2千万人特攻で死ねば勝てる!」と外相に詰め寄るシーンがあったが、あのセリフは大西が常に口にしていた有名な言葉(正確には、日本国民の5分の1が死ねばアメリカは嫌気がさす」というような言葉だったというが)。大西は特攻戦法の導入を主張して神風特攻隊を編成し、「特攻の父」「特攻生みの親」などと呼ばれた。
特攻隊で何千人もの青年を死に追いやった大西の真意は、「このような外道の戦法を始めれば、慈悲深い天皇陛下が必ずや『もうやめるように』と仰せになって、連合国との講和を命ずるに違いない」という期待だったという。大西も、1944年6月のマリアナ沖海戦以降は、日本に勝ちはなく、一刻も早く戦争をやめるべきだとわかっていたのである。そして、終戦のためには、天皇の命令しか方法はないこともわかっていた。
しかし天皇は、特攻の開始を聞くと、終戦を命じるのではなく、「もっと頑張るように」と激励した。大西は引くに引けなくなって、次々に特攻隊を繰り出すしかなくなったのである。「慈悲深い天皇」の決断に頼るとは、なんとも甘えた話で、呆れるばかりだが、ポツダム宣言受諾のときも、政府も軍も自ら戦争をやめることができずに、天皇の聖断に頼ったのである。
次回は、今日終わったところ、御前会議で天皇が聖断をくだすシーンから観ます。