『ゆきゆきて、神軍』 1987年
監督 原一男
撮影 原一男
編集 鍋島惇
奥崎謙三の経歴については、Wikipediaその他を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B4%8E%E8%AC%99%E4%B8%89
奥崎の活躍中の当時の感想については、筆者の身許は確かめていないが、以下のような記事が見つかる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kowa2.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/yazitu25.html
『ゆきゆきて、神軍』のような密着取材型の映画を観るときに注意すべきは、どこまでが奥崎の素の行動で、どこからがカメラを意識した演技なのかということである。そして、演技でないにしても、カメラの無言の挑発に乗って、行動がエスカレートしていくということもあるだろう。
奥崎の行動は、単なるデタラメのようにも見えるが、一つの主義が貫かれていることに注意しなければならない。次回に観る部分で、終戦後23日も経ってから連隊長の命令で射殺された戦友の遺族ふたりとともに、射殺の真相究明の旅に出ることになるが、途中で、遺族が同行を拒むようになる。その直接のきっかけは、奥崎が戦友の供養にも立ち寄りながら殺人事件究明を行なったからで、遺族たちは、面倒な墓参りは省略したがったのである。死んだ戦友の供養こそが主目的だった奥崎は遺族らと決別し、その後は、遺族の「代役」を立てて真相究明の旅を続ける。代役を使うのだからヤラセであり、訪ねた相手を騙すことになるが、奥崎を撮ってゆく映画としてはヤラセではない。ヤラセ戦法で突き進む奥崎の行動の生のドキュメンタリー記録と言える。
遺族との決別の経緯は映画では省略されている。また、戦友の母親に語りかけていたとおり、ニューギニア訪問も果たすことになるが、ニューギニアの記録部分はインドネシア当局に没収されたため、これも映画には含まれていない。
奥崎の行動撮影から5年もかけて完成したこの『ゆきゆきて、神軍』は、なみのドキュメンタリーをはるかに凌ぐ傑作であると同時に、日本人の戦争との係わりを再考させる無二の素材と言っていいだろう。奥崎謙三という独特のキャラターに負う個的な要素と、太平洋戦争がいまだに日本に対して投げかけている暗影の普遍的要素とを識別しつつ、凝視すべき作品である。
監督 原一男
撮影 原一男
編集 鍋島惇
奥崎謙三の経歴については、Wikipediaその他を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B4%8E%E8%AC%99%E4%B8%89
奥崎の活躍中の当時の感想については、筆者の身許は確かめていないが、以下のような記事が見つかる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kowa2.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/yazitu25.html
『ゆきゆきて、神軍』のような密着取材型の映画を観るときに注意すべきは、どこまでが奥崎の素の行動で、どこからがカメラを意識した演技なのかということである。そして、演技でないにしても、カメラの無言の挑発に乗って、行動がエスカレートしていくということもあるだろう。
奥崎の行動は、単なるデタラメのようにも見えるが、一つの主義が貫かれていることに注意しなければならない。次回に観る部分で、終戦後23日も経ってから連隊長の命令で射殺された戦友の遺族ふたりとともに、射殺の真相究明の旅に出ることになるが、途中で、遺族が同行を拒むようになる。その直接のきっかけは、奥崎が戦友の供養にも立ち寄りながら殺人事件究明を行なったからで、遺族たちは、面倒な墓参りは省略したがったのである。死んだ戦友の供養こそが主目的だった奥崎は遺族らと決別し、その後は、遺族の「代役」を立てて真相究明の旅を続ける。代役を使うのだからヤラセであり、訪ねた相手を騙すことになるが、奥崎を撮ってゆく映画としてはヤラセではない。ヤラセ戦法で突き進む奥崎の行動の生のドキュメンタリー記録と言える。
遺族との決別の経緯は映画では省略されている。また、戦友の母親に語りかけていたとおり、ニューギニア訪問も果たすことになるが、ニューギニアの記録部分はインドネシア当局に没収されたため、これも映画には含まれていない。
奥崎の行動撮影から5年もかけて完成したこの『ゆきゆきて、神軍』は、なみのドキュメンタリーをはるかに凌ぐ傑作であると同時に、日本人の戦争との係わりを再考させる無二の素材と言っていいだろう。奥崎謙三という独特のキャラターに負う個的な要素と、太平洋戦争がいまだに日本に対して投げかけている暗影の普遍的要素とを識別しつつ、凝視すべき作品である。