三浦俊彦@goo@anthropicworld

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2006/7/3

2000-02-12 02:15:22 | 映示作品データ

■コヤニスカッツィ Koyaanisqatsi  1983、アメリカ

監督 ゴッドフリー・レジオ Godfrey Reggio
音楽 フィリップ・グラス Philip Glass
製作 ゴッドフリー・レジオ
   フランシス・フォード・コッポラ Francis Ford Coppola

 ポアカッツィPOWAQQATSI(1988)、ナコイカッツィNAQOYQATSI(2002)と続く三部作の第一部。(監督、音楽は三作とも同じ)
 アメリカ国内の風景を、自然→自然開発→都市→自然の順で映し出し、最後にはロケット打ち上げの失敗(爆発)の様子と原住民の壁画を重ねる。
 いろいろな理屈をつけて観ることのできる映像だが、まず第一に脳は停止させてひたすら「体感」するべき映画だろう。反復フレーズをしつこく続けるフィリップ・グラスの音楽は、ミニマルミュージック特有の陶酔感をもたらす。ミニマルミュージックというジャンルは、西洋クラシック音楽の延長上にありながらも、アフリカの太鼓、インドの瞑想音楽、バリやジャワのガムランなど、非西洋音楽の影響下に1960年代に始まった。フィリップ・グラスも、インドのシタール奏者ラヴィ・シャンカールとのコラボレーションを行なっている。非西洋の音楽を取り入れているから西洋文明の自己反省を自然に促す芸術にぴったりなのだ、とするのは安易すぎる発想だろう。が、メロディ、ストーリー、デザイン(構図)など論理的な要素を中心として発展してきた西洋芸術に対して、ハーモニーやリズム、スタイルやムード、色彩といった非論理的部分を強調した『コヤニスカッツィ』のような映像体験は、しょせん西洋文化の枠内で発展してきた映画というジャンルに対し、根本的な「映像体験とは何ぞや?」的思索を迫るのではないだろうか。

 オートメーションでの半導体の生産、自動車の生産、ソーセージの生産、エスカレーター上の人間の流れ、高速道路上のクルマの流れ、等々がすべて同じに見えてくる映像効果は、「アメリカ」というテーマ(?)に何か深く関わっているのだろうか。それとも、時間を圧縮したり引き延ばしたりしないと理解できない視点(宇宙的視点? ロケットの映像が効いている……)からすれば、この世のすべては、自然も人工も国家も何もかも区別のない同根の現象に他ならない、とアピールしているのか。

 今日出してもらった感想では、「面白い」「今までいちばんいい」というコメントが意外と多かったが、「何と言われようとつまらない」「難しくて退屈」という人も少なからずいた。モードを切り替えて、「観かた」を根本から変えられるかどうかが、この映画を楽しめるかどうかの分かれ道だろう。意味に導かれるのではなく、象徴表現に感覚を任せることができるかどうか。その観かたは、セリフのない映画全般について言えることだが。

 なお、『コヤニスカッツィ』の高速度風景など、いくつかの場面は、他の映画にもしばしば引用されています。先日、レスリー・チャンの命日に六本木に追悼上映を観に行ったら(しかしなんで女ばかりなんだろう。男は俺一人だったんじゃないか?)『ブエノスアイレス』という映画の中に、エスカレーター場面等そのまんまが使われていました。
 映画史の一つのスタンダードたるドキュメンタリーアートとして認められている証拠なのでしょう。