【連載】呑んで喰って、また呑んで(93)
「オールド・パー」で長生きしたいが…
●イングランドから永田町へ
「まあ、人を喰っているから」
長生きの秘訣を聞かれた吉田茂元首相の返事である。「ワンマン宰相」として名を馳せた吉田らしいジョークだが、晩年までビーフステーキは1日たりとも欠かさなかったという。高価な葉巻とウイスキーの「オールド・パー」も毎日のように嗜む日々だった。
そんな高級趣味の吉田が心筋梗塞でこの世を去ったのは、89歳のとき。白井健康元気村が理想とするピンピンコロリの最期だった。戦後初の国葬が執り行われ、国民の多くが、ある種の羨ましさを感じながら、この老獪な政治家を見送ったものである。
さて、今回のテーマは吉田茂ではなく、彼が愛飲したオールド・パーだ。まずはトーマス・パーという名のイギリス人農夫に登場してもらおう。1483年にシュルーズベリー近郊で生まれたパーは、独身を貫く。ところが、なんと80歳になって結婚、一男一女をもうけたというからすごい。
驚かされるのは、まだある。105歳のときに不倫を。その不倫相手との間にも一子を授かった。それだけではない。最初の妻に先立たれたのだが、122歳のときに再婚しているのだ。うーん、絶句するしかない。
そんなトンデモナイ爺さんがイングランド中の噂になり、時の国王チャールズ一世の耳にも入った。国王も興味を抱いたのか、さっそくパーをロンドンの宮殿に招く。1635年のことである。
農民として質素な食生活を送ってきたパーは、これまで見たことも食べたこともない豪華な料理を前にして、逆上したことだろう。マナーも忘れて貪った。が、この豪勢な料理を胃袋に収めた結果、パーは体調を崩す。そして、そのままあの世に直行した。
医師の検死によると、肉体的には死に結び付くような異常は一つも見つからなかった。急性の消化不良を起こしたのが死因だったらしい。まさにピンピンコロリである。ま、ウソか本当か知らないが、152歳まで生きしたというから、思い残すことはなかっただろう。
この長生き爺さんの話を覚えていたのが、ジェームスとサミュエルのグリーンリース兄弟。19世紀末に自分たちがつくったウイスキーを「オールド・パー」と名付けて販売する。そのネーミングの効果もあってか、売れゆきも好調だった。
1873年には、岩倉具視の欧米使節団が持ち帰るほどだから、英国ではかなり名の知れたウイスキーになっていたのかも。明治天皇にも献上されたという。
冒頭でも吉田茂が愛飲したと紹介したが、あの田中角栄もオールド・パーを毎晩ボトル一本空にしていた。そもそも田中がこのウイスキーと初対面したのは、大磯の吉田茂邸でのことだ。大蔵大臣時代に吉田邸に挨拶に出向いた田中に、「これ、呑めよ」と吉田からすすめられたのが、オールド・パーだった。「吉田学校」の優等生だった佐藤栄作から「オールド・パーをすすめられるくらいだから、相当気に入られたのだよ」と言われて、田中は有頂天になったらしい。
それ以来、田中はオールド・パー一筋になった。のちに首相に就任して天下を取るが、総理大臣執務室で田中自ら水割りをつくって呑んでいたという。
吉田茂からすすめられたこと以外にも、このウイスキーを田中が好んだ理由があるのかも。それはボトルの構造である。四角い底の部分の角が丸くなっているので、斜めに傾けても絶対に倒れないのだ。
もうお分かりと思うが、政治家にとって、「倒れる」とか「落ちる」は、「内閣が倒れる」「選挙に落選する」を連想させるので縁起が悪い。逆に、倒れないボトルは「縁起が良い」というわけである。
余談だが、俳優の池部良もオールド・パーと縁が深い。先の大戦中、池部は予備陸軍少尉となって、南方戦線に送られることになって輸送船に乗り組む。しかし、敵潜水艦に撃沈されて海を漂流していたところを海軍の艦船に救助され、インドネシアのハルマヘラ島に配属された。
1年ほどして日本は連合国に敗北する。進駐してきたオーストラリア海軍との交渉役になって、駆逐艦艦長となごやかに交渉した。なぜ、なごやかかって? オールド・パーを呑みながらの話し合いだったからだ。その池部も92歳まで長生きした。
オールド・パーの逸話を知ると、長生きしたくなった。私も若いころは何度か人の奢りでオールド・パーを呑んだことはある。確かに美味かった。そうだ、今日からウイスキーはオールド・パーにしよう。一瞬、そう思ったが、般若のような妻の顔が浮かぶ。
「ふん、カネもないくせに、偉そうに。まったく、もう」
と妻は怒り狂って猛反対するに違いない。殴られるかも。やっぱり安いウイスキーで我慢するしかないか。