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満洲のウクライナ人 緊急企画■バック・イン・ザ・U.S.S.R.③

2022-08-26 06:34:00 | 特別記事

緊急企画■バック・イン・ザ・U.S.S.R.③

満洲のウクライナ人
山本徳造(本ブログ編集人、ジャーナリスト)

 

 

 日露戦争は一九〇四年に始まり、一九〇五年に日本の勝利で終結した。満洲の地で戦われた日露戦争に、多くのウクライナ人がロシア軍将兵として参加していたことを、日本人のほとんどが知らない。ウクライナを侵略したロシア軍にウクライナの人々が激しく抵抗している今なら猶更だ。しかし、当時のウクライナは帝政ロシアの一部だったからである。

 満洲を舞台に繰り広げられた戦争に動員された兵卒の多くが、「ウクライナ系ロシア人」だった。ウクライナからやって来たのではなく、極東ロシアに移住させられたウクライナ人たちである。なぜロシアの西部に暮らしていたウクライナ人が、遠く離れた極東に住んでいたのか。十九世紀末にウクライナ人の「極東移住大作戦」が実行されたからだ。もともと「欧州のパン籠」と呼ばれるほど、ウクライナは肥沃な穀倉地である。農村での生活を好むウクライナ人が、「極東に移住すると、自由地が与えられるぞ!」というエサにつられたのも無理はないだろう。

 さて、彼らが所属していたのは、極東ロシアに駐屯する各コサック軍だった。アムール、ザバイカル、シベリア、ウラル、ウスリ、オレンブルク、ドン、カフカス(クバーニ・コサックとテレク・コサック混合師団)の次々と前線に赴く。コサック軍を指揮する将軍たちもウクライナ出身者が多かった。それどころか、名将にも事欠かない。

 ロシア満洲軍総司令官のミコーラ・リネーヴィチ大将は、ウクライナ北部のチェルニーヒウ出身だ。ちなみに、今年二月にロシア軍はウクライナに侵攻し、チェルニーヒウでウクライナ軍に撃退されている。

 混成コサック師団を率いて沙河と黒溝台の両会戦で活躍したパウロー・ミーシチェンコ大将は、ダゲスタンのテミル・ハーン・シュラ出身だ。義和団の乱のときには、東清鉄道を警備し、その功績で四等聖ゲオルギー勲章を授与されている。コサック騎兵の指揮官として、ミーシチェンコに優る者はいない。

▲コンドラチェンコ少将

 

 しかし、日露戦争でもっとも英雄視された将軍は誰か。敵であるはずの日本軍からも一目置かれたロマン・イシドロビッチ・コンドラチェンコ少将だろう。一八五七年にチフリスで生まれたコンドラチェンコはウクライナ・コサックだ。二二歳で一八七九年に工兵アカデミーに入校し、近代要塞築城技術・戦術を学ぶ。

 一八八六年に参謀本部アカデミーを首席で卒業。ヴィレンスク軍管区参謀部で勤務後、ウラル軍管区参謀長、第二〇狙撃連隊長、東シベリア歩兵第七旅団長(一九〇四年に師団昇格)と順調に昇進する。そして日露戦争が開始されるや、旅順の防衛司令官を兼務することになった。

 旅順要塞の司令官はアナトーリイ・ミハイロヴィチ・ステッセリステッセリ中将だったが、要塞づくりはコンドラチェンコに一任させた。こうしてコンドラチェンコは短期間のうちに旅順をかつてないほどの近代的要塞に変貌させたのである。

 一九〇四年、日本軍による旅順攻撃が開始された。コンドラチェンコが前線で部下を鼓舞し、堡塁からの機関銃による十字砲火をはじめ、手榴弾や迫撃砲を多用した攻撃を行う。また新兵器として「電気鉄条網」を設置し、日本軍の四度にわたる襲撃を退けた。

 ところが十二月五日、難攻不落を誇った二〇三高地が陥落、日本軍による砲撃によって旅順港内のロシア太平洋艦隊が全滅する。同月十五日、東鶏冠山北堡塁を視察に訪れたコンドラチェンコに日本軍の砲弾が直撃する。即死だった。

 もはや抵抗もここまでである。旅順要塞の総司令官、ステッセリ将軍は翌一九〇五年元日に降伏するしかなかった。こうして日露戦争は日本の勝利で終わる。コンドラチェンコには、ロシア軍だけでなく、日本軍も称賛を惜しまなかった。日本軍は旅順要塞の陥落後、コンドラチェンコが戦死した場所に記念碑を建立したのである。

▲コンドラチェンコ少将が戦死した場所に日本軍が記念碑を建立

 

 日露戦争の終結から一二年後の一九一七年、ロシア革命でロマノフ王朝が消滅し、ボルシェビキが政権を握る。当然、コサックは赤軍の誕生を歓迎しなかった。帝政ロシアの「傭兵」とも言うべき存在だったからである。革命政権がコサックを「反革命分子」と見なしたのは当然だろう。

 レーニンはコサックに象徴されるウクライナ人の根絶政策に乗り出す。独裁者スターリンもレーニンのコサック弾圧を引き継ぐ。「ホロドモール」と呼ばれる計画的飢餓政策も実行に移され、三五〇万人が餓死したという。ウクライナ人だけでなく、共産主義を嫌うロシア人たちも祖国から去る。彼らの多くは満洲に向かった。中でもハルビンは、いわゆる「白系ロシア人」の人気を独占したようである。

 ハルビンは昔からロシア人の街として知られていた。東清鉄道の建設に携わるロシア人が大勢働いていたこともあるだろう。ロシア人だけではない。ウクライナ、ポーランドといったソ連邦内の少数民族もいたので、聖ソフィア大聖堂(ロシア正教会)や執り成し教会(ウクライナ正教会)もある。一九三二年に満洲国が誕生すると、東清鉄道はソ連と満洲国との合弁となり、翌年には北満鉄道に改称された。三年後の一九三五年三月、ソ連は北満鉄道を満洲国に売却し、撤退する。

 前年に設立された秘密警察組織NKVD(内務人民委員部)が「ハルビン作戦」を決行した。反共産主義のロシア人、ウクライナ人、むポーランド人ら約二万人を殺したのである。

 あれから八五年の歳月が流れた今、ブチャをはじめ、ウクライナ各地でロシア兵による残虐行為が明らかにされつつある。ロシアは変わらない。まるでスターリンの亡霊が彷徨っているかのようではないか。(季刊『経綸』2022年5月の拙稿に一部加筆しました)


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