【連載】呑んで喰って、また呑んで(69)
蒋介石の紹興酒と台湾人の悲哀
●台湾・台北
昭和49(1974)年10月のことである。中華民国(台湾)の蒋介石総統が88歳を迎えるのを前に、台北で米寿を祝う式典が催されることになった。それに参加するために自民党の衆参両院議員74人を含む大型使節団が組織される。
団長の藤尾正行をはじめ、松野頼三、金丸信、三原朝雄、中川一郎、玉置和郎といった大物ばかりだ。随行した秘書たちをまとめていたのが、中川一郎の秘書だった鈴木宗男である。今は参議院議員だが、当時は腰が低くて、誰にも愛想を振りまいていた。
大型使節団なので、文藝春秋、新潮社、そして私が勤めていた出版社など十数社による随行記者団も同行することに。そんなわけで、雑誌編集部の私と単行本出版部のKさんの二人が台湾に行くことになったのだ。確か3泊4日の日程だった。
当時の台湾を支配していたのは、台湾人ではなく、大陸からやって来た国民党である。ある目的をもって人を心地よくさせるのが、中国人の特性の一つだろう。台北では宴席に次ぐ宴席だった。満漢全席とまではいかないが、それ相当の料理がテーブルに次から次へと出てくる。どれもこれも美味だったのは言うまでもない。しかし、私を夢心地にされたのは、宴席で提供された紹興酒だった。
白い陶器に入っていたので、銘柄は不明だったが、その美味いこと、美味いこと。ありふれた表現で申し訳ないが、まさに筆舌に尽くせない味だった。桃源郷に誘われるような美酒とでも言っておこうか。誰かのスピーチが終わるたびに「乾杯!」が繰り返され、紹興酒を何度も呑み干す。酔った、酔った。
蒋介石自身はその2年前の6月に肺炎にかかって以後、公の場に姿を現していなかった。その代わりに顔を見せた人物がいる。梅津・何応欽協定(1935年6月10日に天津の日本軍司令官・梅津中将と北平軍事分会委員長の何応欽との間に締結された)で有名な何応欽将軍だ。赤ら顔で血色の良い顔の歴史的人物を間近にして、少しばかり興奮を覚えた私である。蒋介石は米寿を祝った翌年4月に死去した。
台湾側の接待の合間をぬって、私とKさんは、台北市内の小さな書店を訪れている。経営者のCさんは京都帝国大学出身の台湾人なので、日本の書籍以外に『文藝春秋』と私が編集に携わる『浪曼』の2誌も置いていた。温和そのものCさんは、日本からやって来た二人を大歓迎してくれたものである。それから数年後、「中国共産党のスパイ」という容疑でCさんは逮捕された。台湾独立運動に関係していたので、スパイの罪をでっち上げられたという訳だ。
当時の台湾は国民党による台湾人締め付けが厳しかった時代である。ましてや「台湾独立」を表立って叫ぶことはタブーだった。それを象徴する出会いも。Cさんの書店を訪問した当日か翌日の夜、私とKさんは戦前から温泉地で有名な新北投にタクシーで向かう。台湾の文人たちのパーティーに招かれていたからだ。
まずは「台灣啤酒」(台湾ビール)を入口で受け取ったのだが、小さな会場はごった返していた。100人は下らないだろう。誰も知った顔がいないので、手持無沙汰である。早々に引き揚げようと思っていると、一人の中年女性が近寄り、「日本の方ですか?」と日本語で話しかけた。詩人だと日本語で自己紹介した彼女としばらく他愛もない会話を交わしていたのだが……。
「あなた、知ってますか?」と彼女は急に声をひそめた。「今日のパーティーに参加している人たち、全員が『外省人』です。『本省人』は私だけ。台湾で上の地位に就くには『外省人』でないとダメなんです」
彼女の言う「外省人」とは、蒋介石と一緒に台湾に渡ってきた中国人のことを指す。一方、台湾語や客家語を話す「本省人」は、それ以前に大陸から台湾に渡ってきた台湾人のことだ。蒋介石が台湾の支配者になってから、「本省人」は学校で北京語を教えられた。各職場のトップはほとんどが「外省人」に独占されていたのである。
書店主の不当逮捕されるのは数年後だったが、女流詩人から「本省人」の悲哀を彼女から知らされたので、もう蒋介石総統の米寿を祝う気持ちは消え失せた。ちなみに、もともと台湾に住んでいる少数民族を「原住民」と呼ぶ。
さて、つい先日のことである。拙宅で呑み会をするというので、松戸で美容院を経営するアオキ君が、美容師のヒトミちゃんを連れてやって来た。
「紹興酒を持ってきましたよ」
とアオキ君がテーブルに紹興酒のボトルを並べた。紹興酒は大好きなので、じつに有難い。ラベルを見ると、王宝和(ワンバオフー)とある。紹興酒の本場、浙江省紹興市にある有名酒造メーカーだ。種類は違うが、6本とも同じ会社の商品である。そういえば、蒋介石の出身地も浙江省だった。後で調べてみると、こんなことがわかった。
蒋介石は1949年、国共内戦に敗れて台湾に逃げ込む。しかし、思い入れのある紹興酒なぞ台湾にはなかった。そこで蒋介石は公売局に紹興酒の製造を指示する。こうして台湾中部の埔里で「古越紹興酒」が誕生した。蒋介石の誕生日には選りすぐりのボトルが「介寿酒」、つまり蒋介石の長寿を祝う酒として総統府に送られてきたという。
埔里で作られた紹興酒を蒋介石はランク付けした。
最高級が大陸奪還に成功したときの祝賀用に用意した「皇」、その次が蔣介石自身がたしなむための「王」、国家的行事のときに呑む「公」、そして最後が中華民国(台湾)の立法委員(国会議員)に下賜する「候」の4ランクである。
おそらく私が台北の宴席で呑んだのは、上から3番目の「公」だったのかも。もし最高級の「皇」だったら、気を失うくらいの美酒だったに違いない。だが、結局、大陸反攻が幻に終わったたため、「皇」は大量に余ったという。はたして誰が呑んだのか。気になって仕方がない。