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台湾で第一代目のお墓を大掃除! トゥー博士の先祖が今年で生誕200年

2022-06-05 07:00:47 | アンソニー・トゥー(杜祖健)

台湾で第一代目のお墓を大掃除!

トゥー博士の先祖が今年で生誕200年

 

 

 アンソニー・トゥー(台湾名=杜祖健)博士は、毒物研究の世界的権威として知られ、オウム真理教による一連のサリン事件を解決するきっかけをつくった人物としても有名です。
 トゥー博士の祖先である杜文博さんは大陸から台湾に移ってきました。今年で生誕200年です。ちなみに、トゥー博士は6代目ですが、すでに11代目が。この4月、生誕200年を記念して一族が集まりました。1代目のお墓の清掃をするためです。日本と同様、台湾でも祖先を重んじる風習が根強く残っています。きっとご先祖様も喜んでいることでしょう。

 お墓清掃の音頭をとったのが、博士の甥の杜武青(Charles W.Tu)さんです。
 カリフォルニア大学サンディエゴ校の工学部副部長だったチャールズさんですが、65歳で退職して台湾で「玉山学者」という称号の客員教授に就任しました。300万台湾元(約1200万円)の俸給のうち、約800万円を中興大学に寄付したとか。


▲国立中興大学での3博士(昨年11月)。左から甥の杜武青(Charles W.Tu)さん。トゥー博士、杜武俊さん(同じく甥で元中興大学昆虫系主任)

▲「うん、きれいになったよ」「ご先祖様も喜んでいるでしょう」

▲台湾移住一代目の杜文博さんと妻・盧秀凉さんのお墓

▲あの世への仕送りとして「銀紙」を燃やす

▲一代目のお墓を囲む参加者

 

思わぬ手紙がトゥー博士に届く

 さて、このお墓清掃が縁で、先月、思わぬ手紙がトゥー博士のもとに届きました。差出人は呉博凱さん。トゥー博士の父親、杜聡明博士の姉の曾孫です。23歳も離れているので、基隆に住んでいた以外、あまり詳しいことを知りませんでした。しかし、この手紙で、今まで分からなかったことも判明したそうです。では、日本語で書かれた手紙を拝見しましょう。

〈親愛なる 曽祖叔父 杜祖健 博士様

ご家族様による先祖のお墓参り写真を拝見させていただきました。
皆、穏やかで幸せな顔をされていますね。素敵なご家族です。

曽祖叔父様の自伝「奔流的樹葉」を今日入手できました。半分しか拝読していませんが、太平洋戦争末期と二二八事件前後で経験された九死一生のことに非常に驚きました。二二八事件について、私、1991年に台湾大学入学してから、学生運動サークル「大学新聞社」で一杯勉強しましたが、親族の中で、こんなに際どい経験をされたことは初耳でした。神様が、聡明様と祖健様を守ってくださって、本当に有難く思っております。台湾人エリートの多くが殺されたなか、杜聡明先生がどうやって生き抜いてきた謎も解かれました。

私達は小さい頃から、なぜか、父系の親族よりも、母系の親族の方が関係が近いのです。
父親が末子で、母が長女というそれぞれ家族内の位置に強く影響されているのだと思います。
社会に対する関心が高くて、正義感が強いという性格は、兄弟姉妹で共通しているのみならず、母の兄弟の世代でも同じです。
高祖叔父杜聡明様が若い頃、袁世凱の暗殺を計画していたことを知り、私は、なんかDNAのせいじゃないかと思うようになりました。

それが原因か、母が私に博群と名付けたのは、「博愛人群」という期待を込めたからなのだという。
私は基隆の中学出身にも拘らず、台北高校連合入試にチャレンジし、建国高校(日本時代の台北一中)に合格しました。また、生徒会長の選挙まで立候補し、当選を果たしました。このことが、理系か文系かを選ぶ時の決定要因にもなりました。将来は政治リーダーになろうと、文系を選んだわけです。入学試験で数学と理化学とも満点だったのに。振り返る度に、人生全体の合理性をポジティブに信じるよりも、やはり後悔する気持ちになる確率が高いのが現状です。

生徒会長で大きな挫折を経験し、政治の難しさを実感させられ、政治リーダーではなく、それを支える脇役、ブレインになると方向を転換しました。そして、大学は台湾大学政治学科に入学。修士課程の指導教官が許介鱗(東京大学法学政治学研究科博士)でした。日台関係の複雑さや重要さからして、政治学科教師陣の大多数がアメリカ博士ということに、使命感を感じ、東京大学留学を決めました。しかし、いろいろな原因があって、結局、東大法学政治学博士課程修了のみでした。それでは、学界に入れません。

私の父親呉清熊は宜蘭県頭城鎮生まれ育ちです。祖父が非識字の農民ですが、高祖父は清朝の秀才だったそうです。
それ以上の家族史は分かっておりません。

漢民族を組織して宜蘭(葛瑪蘭)平野の開拓に導いた呉沙という名人の子孫じゃないかと思い込んだ時期もありましたが、それは間違いでした。仏壇に置かれてある呉家家譜では、私が19代目で、1代目が清朝康熙帝の時期 (1662-1722)に生まれたのです。それが台湾に移住してきた最初の世代とするものならば、私は、1773年に42歳で福建漳州から台湾にやってきた呉沙の子孫にならないと思うからです。

父親は末子で生まれて、宜蘭高校を第一位で卒業したそうです。ただし、大学入学試験は運が悪かったせいで基隆の水産学院(その後、国立海洋学院を経て国立海洋大学になった)にしか合格出来なかったそうです。父が日本留学を決めたとき、李蔡金菊氏(その後、義理の母となった)が資金を援助してくださったそうです。九州大学農学博士を取得した1973年に、私が三男として生まれました。杜家の子孫にあたる李蔡金菊氏の助けがなかったら、私の父呉清熊は留学の夢を叶えられなかったのかもしれません。もちろん、母との結婚もしなかったら、私だって今はどこにいるのかも分かりません。父系の家族の中で、博士がそれほど多くないようですが、ただし、私の従兄には、台湾大学電機学院李嗣涔教授のもとで博士号を取った人(呉忠政)がいます。TSMCの技術開発部長だそうです。

随分長く書いてしまって、申し訳ございません。
大変失礼いたしました。〉

 この手紙を読んだトゥー博士はつくづく思いました。「杜家はお金の方はだめですが、学業の方で成功しているのが多く驚いています」と。そして、こんなことも。「(曾孫は)東大の法科卒なので日本語で通信ができます。この度長いメールをくれ台湾人の悲哀を感じます」


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