【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」(89)
ピンクや青や紫の玉のような花の紫陽花が咲き誇る。白い花びらで、甘い香りのクチナシの花も、6月の梅雨空の中で映えている。
6月14日は母の命日であった。もう、50回忌の法要も四半世紀も前に終えている。その母がどんな人だったのかは、私自身は記憶にないのだが、法事の席で出る母の話から、その人柄を想像したものだ。
熱心な仏教徒であった祖母や兄によって、祥月命日(故人が亡くなった同じ月日)と、3と7のつく回忌の法事には、お坊さんに読経をしてもらい、その後は身内を囲んでの食事会があった。
母の実家は呉服屋で、当時としては大きな店構えであったようだ。兄弟が5人、姉妹が4人。母は長女だった。一回りも年の離れた父に望まれて18歳で結婚する。正月やお祭りになると子供たちを連れて、里帰りをしていたらしく、長女であった母親は歓迎されていたのであろう。
家族(母の両親、妹たち、母の子供の兄・姉たち3人)で着飾った写真(不思議と男兄弟は写っていない)がある。それらは数年にわたったもので、アルバムとなっていた。まだ、戦争への危惧はあまりなかった頃のことだ。
それから何年か過ぎた写真には、私が生まれて間もない6カ月の時に、椅子に立たされた(後ろから祖母に抱えられている)ものが、たった1枚あった。
法事の席でそれらの写真を前にして、思い出話も出るのだが、母が亡くなったのは37歳で、私がその年齢に近かったこともあってか、叔父(母の兄)は私に向かって言った。
「りう(母の名前)に一番似ているなぁ」
いつも祖母から聞かされていた母は、成績優秀で気立ても良かったとのことで、顔は似たのかも知れない。が、頭の中身や所作などは、母とは程遠いものに思われる。
と、すっかり遠い昔話になってしまったが、我が家の6月の行事には孫息子と私の誕生日もある。この孫もすでに社会人となった。家を出て、アパートで独り暮らしを始めている。甘えん坊に見えていたが、自炊をしているとのこと。やはりというか、夫の血筋を受けて、アルコールは苦手らしい。
さて、母より2倍以上も生きてきた私も、八十路となってしまった。年齢を数える時には、区切りが良い昭和15年6月生まれで、西暦でいえば1940年である。そして、紀元2600年でもあった。神武天皇即位紀元2600年の記念行事として、ちょうちん行列を始め、いろいろ行われた年である。
奉祝国民歌の「紀元二千六百年」という歌がある。この度、初めてユーチューブで聞いた。
♪金鵄(きんし)輝く日本の 栄えある光身に受けて
いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
「奉祝曲」といえば、記憶に新しいのは、令和の天皇の前で、「嵐」が歌ったことを思い出す。「奉祝曲 ray of water」では、雅子妃が思わず涙を拭われた場面があったことも、話題になった。
また、昔に戻るが、戦前に広く歌われた国民的愛唱歌「愛国行進曲」がある。海上自衛隊の東京音楽隊合唱隊が歌うのを聞いた。あぁ、聞いたことがある! 歌ったこともある! 子供の頃の記憶が蘇った。
♪見よ 東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌溂と
希望は踊る大八洲(おおやしま)
ああ晴朗の朝雲に そびゆる富士の姿こそ 金甌無欠
揺るぎなき 我が日本の誇りなれ
すっかり、歌の話になってしまったが、1940年には、オリンピックと万博の同時開催計画もあったという。1937年に始まった日中戦争(支那事変)の長期化で五輪は中止、万博は延期となった。
そして、今年2020年の東京オリンピックは、新型コロナウィルスのパンデミックで、来年に延期となった。果たしてこのコロナの終息はあるのか。来年も中止になりかねないが、80年前の轍を踏まないことを祈りたい。
さて、2020年という区切りの今年、私も大代を迎えてしまった。今は何とか元気であるが、この先に関しては、心もとない。改めて自分も八十路に入ることが、頭にちらつき始めてから考えていたことがある。
サークル活動のいくつかに参加してきて、少しでも私に出来ることならと、幾ばくかの責任感を持って頑張ってきた。でも、その役目は若い人たちにバトンタッチをすべきだ、と思う。実際、すでにバトンタッチができた会もある。また、少し難航はしたが、理解はしてもらった会も。
晴耕雨読ではないけれど、天気が良い日には散歩やパークゴルフ仲間と芝生の上を歩き、元気に笑いたい。気が向く日には、自転車に乗って風を感じることも楽しみだ。
酷暑や厳寒には無理をせず、家の中で過ごす。本好きでもない私は、布と針を持って遊ぶであろう。今の私はそんな思いだ。クチナシの花言葉は「喜びを運ぶ」である。クチナシの花が、どうか私を応援してくれますように……。